ナメ

思い立ったが吉日。月に叢雲、花に風。自分の話を。

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最近の記事

曖昧な主体-『マッド・マックス:フュリオサ』-

 『マッド・マックス:フュリオサ』について(もしかすると他の人も既に言及しているかもしれないが)非常に感心した部分がある。面白い視点だと思うので軽くまとめてみたい。  フュリオサは賛否両論あった作品だったが、やはり前作の方が上であるという意見が大半を占めると思う。個人的にも、完成度という点では前作に遠く及んでいないと思う。進行も編集もやけに緩い。プリクエルとして『FR』とのプロット的な接合もそれほど上手くない。上手くないし、全体のストーリーにも不和が生じている部分も多い。

    • 他者と、孤独と、曖昧さと-『Chime』-

       以下は、黒沢清の『Chime』を観た雑感である。こういう話なんじゃないかな、ということを考えたので、何か参考にしたり、各人補完したりしていただければ。 自分のことしか考えずに生きてたらそりゃそうなるわな、としか思わないのだけれど、私も私のことしか考えずに生きてるから、いつかこうなるんだろうなと思いましたまる  みたいなことを思う訳であるが、結局、その「自分」すら満足に考えられていない。あるいは他人の空間的併存を一切考慮できていない。だから、リズムが狂う。主人公一家の会話

      • 【殴り書き】『スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム』

         公開から本日でちょうど2年経ち、今作が物語としてどう機能しているのか、自分なりに考えてきたことをどこかに出力しようと思い立ってここに記すことに決めた。ただ、諸々の検証・履修が全く追いついていないので一旦まとまっている全体像をなんとなく書くだけ、という感じで。散文的ですが付き合える方はどうぞ。  これほどまでに貧弱で出鱈目な映像とプロットラインで走っていながら成立している映画にはこの先一生出会えないかもしれない。日常と非日常、虚構と現実、科学と魔法、衒学と韜晦、大人と子ども

      曖昧な主体-『マッド・マックス:フュリオサ』-