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曖昧な主体-『マッド・マックス:フュリオサ』-

 『マッド・マックス:フュリオサ』について(もしかすると他の人も既に言及しているかもしれないが)非常に感心した部分がある。面白い視点だと思うので軽くまとめてみたい。

 フュリオサは賛否両論あった作品だったが、やはり前作の方が上であるという意見が大半を占めると思う。個人的にも、完成度という点では前作に遠く及んでいないと思う。進行も編集もやけに緩い。プリクエルとして『FR』とのプロット的な接合もそれほど上手くない。上手くないし、全体のストーリーにも不和が生じている部分も多い。

 それでも、この映画におけるいくつかの演出と、それが描き出す物語を、私は非常に気に入っている。何だったら今作が掲げるテーマとナラティブ、その一点においては『FR』よりも断然好きだ。

 『マッド・マックス:フュリオサ』は、主体を巡る物語であったと思う。そして、その物語は--ざっくり言って--「地に足を付けること」によって表現されている。男性の支配者たち--それは大人たちでもある--による「奪う/奪われる」の世界観の中で、フュリオサも無論、その主体を奪われていく。ここでまず注目したいのが、中盤で挟まるウォータンク戦以前の、前半部分のアクションである。

 まず冒頭、フュリオサがディメンタスの部下たちに捕まって、バイクに乗せられるところから始まる。バイクに乗せられることで地面から足が浮く。つまり、自分で走ることが出来ない。自由に動くことを制限される。これが、主体の喪失を象徴していると私は考えている。このシンプルなイメージは、作中で幾度となく反復される。

 母の下へと舞い戻って彼女を助けようとした際も、ディメンタスに抱きかかえられることで地に足を付けられない。ディメンタスに引き取られて以降も、何かと乗り物に乗せられることで、足が地面から浮く。リクタスから間一髪で逃げる場面でも、パイプにしがみつくことで宙づりになる。砦で働く際も、要求されるのは宙づりにされた車にクレーンを付けるという、足場が不安定な作業だ。考えてみれば、砦も地面から離れた空間だ。また、ウォータンクで逃げようとした際も、下にしがみついて地面から足が浮く。

 ディメンタスに引き取られているときも、ジョーに引き取られているときも、どちらもその社会空間において、フュリオサは完全にモノ化されてしまう。そういった状況で、地面から浮き上がりながらも、主体を曖昧にされながらも、それでも自己を失わないことが今作のテーマだ。

 このフュリオサの主体が完全に回復するのが、警備隊長:ジャックにつっとばされて、行く当てもなくなり荒野に独り立つことになる場面だ。

 警備隊長につっ飛ばされる直前のウォータンク戦では、それまでの判然としないぼんやりとした映像と違って、じっくりと空間をリマインドしていくようなアクション演出がされている。そして、久しぶりに外の世界に出たフュリオサは、このアクションシーケンスの中で、その主体を存分に行使していく。そのシーケンスの最後にフュリオサが非常にクリアな景色の中に立つことになる、と考えていくと、ぼやけていた主体の回復を演出していると受け取るには十分だろう。また、荒野にただ一人立っている状態はつまり、何の社会に組み入れられていない、完全に解放された状態だ。

 その後、ジャックに引き取られることになるわけだが、ディメンタスやジョーと違って、彼は人間としてフュリオサを雇う。また、フュリオサは以前は乗せられたりしがみついたりするだけだった車やバイク(乗り物)を、自身の手で操縦することが出来るようになる。フレキシブルな関係性を提供する男性:ジャックの下で、フュリオサは男性・父性社会の中でも、人間としての生きることが出来るようになる。そして、緑の地への憧憬を胸に、日々を生きていく。

 しかし、弾薬畑での戦闘後、激昂したディメンタスらの執拗な追跡によって、二人は捕まり、最終的にジャックは殺されてしまう。ジャックが地面を走らされる一方で、フュリオサは宙づりにされる。地面から足が浮き、ここでもまた、フュリオサは主体を奪われるのだ。しかし、腕を切り落とすことで再び主体を回復し、バイクを操縦して、逃げることに成功する。

 (個人的に、演出的な白眉はここだった。「地に足がつかない」ことがテーマなのでは、という自分の読みが正しいかどうか、イマイチ自身が持てなかった中で、確信持てる演出が来たからだ。いや、ホント「答え合わせ来ました!」って感じでしたねハイ。)

 ディメンタスへの復讐を誓ったフュリオサは、自身の身体を、主体を、男性的なものへと改造していく。機械の腕を取り付け、頭を坊主頭に剃り上げる。そして、正しく「奪う/奪われる」という価値観、「復讐」のために突っ走っていくことになる。しかし、ディメンタスを追い詰めた末に、復讐を成したところで虚無しか待っていないことを察する。

 今作において男性社会は、空虚な空間として描かれていると私は考えている。生きているのに死んでいるようで、これっぽっちも生の実感がない。そういったぼやけていて、乾燥した空間だ。「奪う/奪われる」の世界であるがゆえに、生産性がないのだ。ウォーボーイズが初めて登場する場面にも、顕著にその感覚が表れている。身体に矢の刺さった、満身創痍の状態で登場したウォーボーイが「ここはヴァルハラか?」とディメンタス一堂に質問するあの場面。まるでゾンビのようにも見える。生と死の境、諸々が曖昧で、虚ろだ。ディメンタスとジョーが交渉する場面で砦の機械の動作音が響き続けるのもそういった虚ろさ、虚しさを感じさせる。音楽もとにかく単調なメロディを反復する。

 あるいは、基本的にこの映画、編集が緩い。冒頭のバイクチェイスからしてそうだが、距離・位置・空間の把握が全然判然としていない。単純に技巧的な問題だと考えることも可能だとも思うが、今作において男性社会がこのようなぼんやりとした虚ろなものとして描かれていることを加味すると、必然の演出だとも思えてしまうのだ。見ていて面白いかどうかとは別の話として。

 また、作品全体を通して、段々とスコアのペースが速くなっていくのだが、いざディメンタスを追い込んだときには完全に音楽が消える。そこまで、ある程度クリアになって来ていた景色もなくなり、ぼんやりとしたがらんどうの荒野で二人は会話することになる。

 あの世界において、輪郭がぼやけて判然としなくなっているのは、何もフュリオサだけではない。ディメンタスがフュリオサとの最後の会話で「俺たちは亡霊なんだ」という旨の発言をするのも、こういった曖昧さ、虚ろさが根底にある。「奪う/奪われる」だけの何の生産性もない世界は、空虚なだけである。その世界観に呑まれると、どれだけ主体を発揮しても無意味だ。

 だからこそフュリオサは最後、あの決断をするのだ。ディメンタスに果実の種子を植え込む。つまり、亡霊に生を埋め込む。そして、男性性、父性を引き受けつつも、その矛先を変えていく。ここではない、どこかへと駆け出していく。主体を奪われた女性たちを連れて。

 (補足しておくとウジを取っている婆さんの存在も「思考停止的に生を引き延ばそうとするのも虚しいだけ」というエピソードとして重要だろう。)

 事程左様に、テーマとナラティブにおいては非常に筋の通った作品だったと思う。同じ観点で観ても、達成度で言えば全然『FR』の方が上だが、それでも今年観た映画の中では非常に興味深かった。全然間違っている部分も、足りていない部分もあると思うのだが、何かの参考にして頂ければ、うれしい限りである。

 

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