空襲を体験した方からお話を聴いて

こんばんは。
最近は詩を描こうと思っても感情的に書き殴ることしかできず、これじゃ詩じゃなくて愚痴じゃないかと苦笑して消しては描き消しては描きの繰り返しです。どうにも余裕がないと文章を推敲している暇もなく、ぐちゃぐちゃのまま排泄した感情を誰かに見てもらいたいという衝動に駆られてしまいます。
これでは仕方ないのでこのアカウントで初めて詩以外の文章を書いてみようと思います。今までの散文が詩の形を成していたかどうかは悪しからず


つい先日、空襲の資料館に行ってきました。そこで空襲を体験した方の公演を聴き、お恥ずかしいことに涙を流してしまいました。
同情なんて望んでいるはずもないのに。
しかし、自分でもどんな感情で涙を流したのかいまだにわかっていません。

お話しされている田中さん(仮名)は空襲があった当時近所の学校の体育館に避難されていたそうなのですが、火の海になったドアの外から

開けてくれ!助けてくれ!

といった怒号が響き、何度もドアを叩かれたそうです。しかしドアを開けてしまったら中にいる田中さん達まで火の海に飲まれてしまう。見殺しにするしかなかったと田中さんは語ります。

なんて残酷なのでしょうか。
私はその話を聴き、やり場のない怒りを感じ、憤慨しました。戦争なんて何も生まないのに、国民には関係がないだろう。

その後、空襲が収まり火が消えた頃にドアを開けると、丸太のような灰の塊がドアの前にたくさんあったそうです。

講演会ののち、資料館を見て回ると
空襲で焼け焦げたご遺体の写真があり、田中さんのおっしゃっていた“もの“はこれか。と愕然としました。
“それ“は映画「オッペンハイマー」に出てきた丸太のような形をした灰の塊と全く同じでした。
また、焼死以外で亡くなられた方のご遺体の写真もあり、眠っているようにしか見えない方々が乱雑に荷物のように積まれていました。
・・・人が死にすぎて、みんな麻痺してしまったんだろうと想像します。

戦争が始まると自殺者が減るという話は有名ですが資料を一通り見た後は当たり前だと感じました。
死にたいだなんて思う前に世界に殺される。
そして、死が身近すぎる。
明日生きていられるかもわからない世界で、死のうだなんて思えるわけがない。
あんな酷いこと、絶対に繰り返してはいけない。
強くそう思います。

私たちは何の気なしに東京の地を踏みますが、たくさんの方々の命の上だということを改めて認識しました。


ZAZEN BOYSの永遠少女という曲に

「1945年 焼け死んだあの娘は15才だった」


という歌詞があります。
講演会でお話しされていた田中さんも当時12才だったとのことで、わかっていたつもりでしたが
15才、高校1年生とふと考えるとなんだかすごく
ショックでした。まだまだ遊びたい盛りじゃないですか。でも私がこんなに怒り心頭に発したところで世界はちっとも変わらないし、過去は消えない。もどかしい。世界を変えられるなんてたいそれたこと思っていませんが、どうにかしたい。でもできない。そんな無力感に苛まれています。苛まれるだけ


残念ながら今、私にできることは歴史を学ぶことだけなので、勉強は嫌いですが机に向かおうと思います。
ここまで読んでくださってありがとうございます。
良い一日を

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?