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「大伴家持の時代」-物語が生まれる。

「吉備真備と大伴家持」覚書 note記事 ※コーヒータイム(117)共有
‥新たな「大伴家持の時代」へ-物語が生まれる。(藤井一二)

  •  (現在)2021年春、小田急線座間駅に近い仮寓から郷里に戻って3年目の春を迎えた。座間は私の幼少期に3年余を過ごした懐かしい地。母と一緒に竹藪を抜けて近くの農家へ牛乳を買いに通った小道は往時のままで、時折は帰路、座間駅で降りてから遠回りしこの道を歩いた。

  • 近作)神奈川滞在中に着手した「万葉の時代と社会」に関する専著の構想・補筆に、北陸新幹線と小田急ロマンスカーの車内時間が有効であった‥と懐かしく思い返している。論稿12編、A5版、333頁。「万葉の世紀」3部作の完結編、漸く再校が済み、5月末の刊行予定。

  • 画家の個展に似る)私にとって「記録に残したい論文」を収載したにすぎないのだが、それは画家が、晩年の回顧展に初期の作品を含めて展示しその画集を刊行するのに似ている。

  •  (これから)上記と並行して準備してきたコンパクト本は、全国的に普及した中公新書『大伴家持』の連作ながら鮮度のある書き下ろしにすべく編集に入った。自らの心身の維持が叶ううちにと、往年のベストセラー『和同開珎』(中公新書)や『古代日本の四季ごよみ』(同)と共に電子書籍化の話題にも接した。

  •  (話題)目下、第9次遣唐使(733年難波出発、735年帰国)に関して、玄宗皇帝・阿倍仲麻呂(門下省左補闕)や吉備真備(長安滞在中)の帰路について思案を重ねている。以下は、そのポイント。

  • ➀(玄宗皇帝と会う)玄宗皇帝が長安城にいる時‥遣唐使の代表は含元殿の朝見、城市の観覧、唐制度・仏教・文芸などの新知識、市場で唐・西域文物を入手を経て、滞在中の留学生と合流し、洛陽へ移動した。 

  • ➁(第9次遣唐使)開元22年(734)4月、洛陽に入り美濃絁・水織絁各200疋を献上(『冊府元亀』971・外臣部)。玄宗は、同年正月(己巳)に洛陽(東都)へ移動し、当地に2年9か月間滞在した(『旧唐書』本紀8・玄宗紀)。

大伴家持の時代・東アジア交流図 
第9次遣唐使の往復路(推定図)

➂(阿倍仲麻呂の動向)長安ー洛陽の移動に約20日間。中枢官人も皇帝に同行し洛陽城で執務。このとき門下省左補闕の阿倍仲麻呂も洛陽に駐在したとみる(仲麻呂は日本へ帰ることはなかった)。遣唐使の一行は帰国に向けて揚州ー蘇州へと移動しなければならなかった。船出のときが迫っていた。

➃(吉備真備の「書」)2013年春節の頃、中国の深圳望野博物館(深圳市)に収蔵された唐代の墓誌銘に「日本国朝臣備書」の銘があり、在唐中の下道(吉備)真備との関係が話題を集めた。

➄「大唐故鴻臚寺丞李君墓誌銘并序」に、李君は開元22年(734)6月20日、河南省の聖善寺別院で病により52年の生涯を閉じ、洛陽の感徳郷の原に埋葬したこと、故人への哀悼と履歴を記す墓誌銘は文を秘書丞の褚思光、書を「日本国朝臣備」が担ったと記す。

 「備」は誰か)当時、在唐の日本人で名に「備」字を含み、秘書省の丞らと知遇のある人は、吉備真備のほかに見当たらない。それは鴻臚寺丞の李君、秘書丞の褚思光、留学生の下道真備が洛陽に滞留した事実と深く関わる(画像参照、藤井別稿より)。                                                                                              帰国後の吉備真備―大伴家持との接点)吉備真備は天平7年(735)3月に帰国。同9年(737)従5位上・右衛士督、同15年(743)従4位下・春宮大夫、同19年(747)右京大夫に。その後の政情変化から天平勝宝2年(750)に筑前守・肥前守を歴任したあと、天平勝宝4年(752)閏3月に再び遣唐使に→翌年末、紀伊国牟漏崎に漂着し翌年(754)3月に都へ戻った。 

大宰府の吉備真備)天平勝宝6年(754)4月に大宰大弐―天平宝字8年(764)正月に造東大寺司長官に。約10年間を大宰府に滞在した。大宰府は吉備真備の足跡を深く刻むことになった。

大伴家持のあゆみ)大伴家持は、10年近くの内舎人時代を経て天平17年(745)従5位下、同18年に宮内少輔を経て越中国守へ。その5年後、少納言として都へ戻る(※このとき吉備真備は九州の地)。家持は、天平宝字元年(757)6月に兵部大輔、同年(8月)右中弁、同2年(758)6月に因幡守へ。

大伴家持が都に戻る)4年後―天平宝字6年(762)正月、信部(中務大輔)として都に戻る。しかし2年後に薩摩守、神護景雲元年(767)に大宰少弐、宝亀元年(770)に民部少輔として、ようやく都に戻った。薩摩に2年半、大宰府に3年間を任地としたことに‥。 

吉備真備と大伴家持―運命の770年
〇大伴家持➩宝亀元年(770)9月:左中弁・中務大輔へ昇進。10月正5位下。771年従4位下へ。
〇吉備真備➩宝亀元年(770):称徳天皇(孝謙太上天皇)のもと、参議・中納言・大納言・右大臣へ。➩~宝亀2年(771)3月に引退。

いま、考えること
〇大伴家持の昇進=大納言・大中臣清麻呂による推挙=右大臣吉備真備の下で実現した。
二人の歩み‥漸くここで重なる=時を異にするが、互いの政治的歩み、大宰府・九州での政務経験を共有する思いが背景にある ☜藤井の私見。  ➩新たな「物語」が生れる予感‥が。
➩『シルクロードと大伴家持の時代』に関して今夏、公開講座の予定。