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12. 四乃宮(2)

12.四乃宮(2)

 執務室を出て向かったのは、上下に螺旋が伸びる、石の階段である。
「この階段は、右から入り三階と四階にしか出入り口がない右螺旋と、左から入って三階止まりの左螺旋の二重螺旋になっていて、四階と二階の人間は絶対すれ違わない構造になっている」
 栄螺階段と呼ばれているらしい。右の入口のみに、警備の人間が常駐しているそうだ。
「こちらが女性用の階段」
 宮殿長が右入口の脇に立っている若い男の横をすり抜け、「地下には、貯蔵庫と厨房と職員用の食堂がある」と説明しながら下へ降りていく。

 地下は、上よりもぐっと狭い感じがした。通路の幅は地上階とさほど変わらないが、天井が低い。
 窓がなく、灯りは両側の壁にある蝋燭の光だけ。
 けれども、地下独特のひんやりした空気が落ち着く感じ。
 だがどこからか、ふんわり温かな空気が流れてくる。
 杏奈が鼻先を左に向けると、宮殿長もそちらを見やって、
「パンのいい匂いがするな。あっちには厨房と貯蔵庫と職員食堂がある」
 だが、彼の足先は、反対の右を向いていた。
 宮殿長は通路を右へ進み、奥の奥まで歩いていった。
 突き当りにある飴色の扉は、地下通路の途中で見かけた簡素な板戸とは異なり、美しい葡萄唐草の模様が施されている豪華なもので、囚人が開けるには少々ためらわれる雰囲気。しかし、宮殿長は躊躇なく分厚い扉を押し開けた。
 促されて中を覗き込めば、左右に整然と本棚が並ぶ、奥行きのある空間。
 書庫だ。
 頭上は扇状の丸天井。中央に向かって、左右の壁から斜めの木の梁が伸びている。石の半円の下に等間隔で並ぶ、こげ茶の梁の列が美しい。
 吸い寄せられるようにして杏奈は室内に入り、本棚の列を見やった。
 凄い。本がこんなにたくさん。
 紙は高価だ。活版印刷で作られる本は、さらに貴重品。棚一つを埋めるだけでも、かなりの財力を要するのに、ここには壁を埋め尽くすように棚があり、そのいずれにも本が詰まっている。
 感嘆しながら眺めていると、宮殿長が近寄ってきて、杏奈の耳元で囁いた。
「気に入った? 一応ここは図書室だ。蔵書は少ないが、気に入ったものがあれば、自分の部屋に持っていっても構わない。借りるときには司書に――」
 いいつつ顔を上げ、きょろきょろする。
「いまはいないようだけど、ワカドという白髭のご老体だ。その爺様に断って借りてくれるかな」
 杏奈は、うなずくことをためらった。
 トマヤ国は、立憲君主国だ。天辺にはトマヤ王が存在しているが、王とそのご家族は、専ら国の顔として外交業務を担っているだけ。実際の権力は、議会がほぼすべてを掌握している。だから、生まれついての身分差はない。
とはいえ、雲の上から下々まで、富裕と貧困の層のグラデーションが出来てしまうのが、世の習いで。
 王の周辺の人々や、羽振りのよい商人などの富裕層の識字率は、ほぼ百パーセント。中流では七割、それ以下となれば五割を割る。
 つまり、杏奈のような底辺にいる娘――天涯孤独で人まで殺めてしまった娘が、文字を読めたらおかしいはずなのだ。
 あと二カ月ほどの人生だから、もう隠さず生きていけということなのか。
「図書室は、男の囚人も使用している。なにかあったら困るから、ここへ来るときには、必ず私の執務室に一言声をかけてから行くようにね」
 訝しみつつも、杏奈はとりあえずうなずいた。

「じゃあ、上に行こう」
 来た道を引き返し、今度は螺旋階段を上へ。
「地上二階は男性用の独房、三階は宮殿で働いている者の住まいだ。三階と、特に男の収容階へは近付かないでほしい。現在、独房は半分近く埋まっている。いまいる男たちは比較的落ち着いた者ばかりだが、どんな者でも荒れることはあるから念のため」
 宮殿長が低く告げる。
 荒れるのは〈鏡の死の先触れ〉のせいだろう。繰り返される悪夢に耐えきれず、荒れ狂っても不思議じゃない。
「一番上の四階が、女性囚人の独房階だ。といっても、独房はがら空き。ここにいるのは、望んでもいないのに殺してしまった女性ばかりだから」
 栄螺階段に反響する宮殿長の声を聞きながら、杏奈はぐるぐると螺旋を上った。
 この一週間で体力気力共に削られていて、ちょっと上っただけで息が切れる。階段ホールの暗がりで、身を折り曲げ膝に手をついて、ぜいぜいと荒い息を漏らす。
「……ほら、アンナ」
 顔を上げれば、宮殿長がこちらに手を差し伸べていた。
 白魚のような手だなと眺めているうちに、手首をつかまれ、引っ張られて。
 気付けば、杏奈は細身の円柱が立ち並ぶ、明るい回廊の途中に立っていた。
 回廊の真ん中は庭園になっていて、種々の花が咲き乱れている。
 太陽の光。
 外……だ。

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