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愛着

大学の頃に私が所属していた工芸研究室のOBで、木彫で他大学の教授を勤める先生がシンポジウムを行うそうで、原稿依頼が来た。同じ教授を恩師に持つという意味では兄弟子という事になるので断る義理は無い。刃物に関する内容を、という事だったのでこちらにも記録用にまとめておく。

noteを残すようになってから&教員になってから、言葉で表すのも好きだなと感じる事が出来ている。ていうか、今まで言葉で表さなすぎていたんだな。美術ってそうさせる節があるかもしれないな。作品やモノで表してナンボみたいなとこあるからな。なのでこういう依頼が来てもそんなに頭抱える必要は無かった。話し言葉多いし全く客観性の無い自分語りなので「論文」には程遠いが、書いてて楽しかった。

【愛着】

私は現在、中学校・高等学校で美術教員を勤める傍ら、木を用いた作品制作を行っている。木材加工は道具(刃物)が無いと成り立たない。木材に関わらず、あらゆる支持体(造形素材)から作品を生み出すにあたって道具は不可欠である。全ての表現者にとって道具とは、支持体に対して作者の意図や想いを伝える、橋渡しの役目を担っていると思う。
この様な想いから、私は職場の学校において生徒が軽率にものを投げたり、道具を乱暴に扱う様なら怒る。美術室に筆記用具を忘れた生徒が慌てて取りに来たら褒める。「無くしたり壊れたらまた買ってもらえばいい」と平気で思っている生徒もいる。昨今の消費社会においてはそれも叶うが、それでも自分が使う道具に愛着をもち、大切にする心を育てたい。

木や刃物に興味が湧いたのは大学生の頃だ。地元が群馬の山村で自然豊かな事もあり、私にとって木は身近な存在だった。ただそれはあくまで立木の状態で、乾燥し加工された木材では無かった。大学の木工室で初めて「木材」に出会い、そこから木材の造形素材としてのポテンシャルに惹かれていった。

大学の工芸の授業の一貫で新潟の燕三条市・長岡市与板町を訪れた。ここは打刃物の産地であり、鍛冶職人の町である。制作で使用する刃物がどのように生まれているのか知ると共に、製作者である鍛冶職人の熱に触れた。この話を実家に帰った際にした所、面白い話を聞いた。なんと私の先祖に鍛治職人がいたそうだ。幼い頃、近所のおじさんやおばさんに「かじやのこ」と呼ばれていたのを思い出した。それが「鍛冶屋の子」という意味だと気づいたのは、この時だった。

私はより詳しく知るために、今年89になる祖父と話をした。祖父曰く、うちはいわゆる「野鍛冶」というやつで、家族や近所の人たちが使用する農具や生活用具を打っていたそうだ。当時は各家庭が畑を持ち、野菜を育てる自給自足が基本であったため、鍬や鉈などは農具として需要があった。集落で唯一の鍛冶屋であるうちは農家をやっている近隣住民に道具を渡し、住民は御礼に採れた野菜をうちにくれたそうだ。良い時代だな、と思った。

更に歴史を遡ると、日本刀を打っていた時代もあったらしい。ただ大戦の際に政府に鉄資源としてほとんど回収されてしまったそうだ。ただ天井裏に隠しておいた事で回収されなかった刀が一本あった。祖父はその日本刀を大切にとっておき、折って2本にし、それぞれに柄をつける事で鉈にした。山を歩く際には、枝打ち用に持っていったそうだ。

現在この鉈の1本は私が持っている。この話を聞いた後、祖父から頂いた。日本刀をベースにしているので鉈にしては刀身は細く、薄い。祖父には悪いが木材加工においての鉈としては使いづらい。ただ祖父の道具や祖先に対する愛着や執念の様なものをひしひしと感じ、大事にとってある。焚火をする際に、針葉樹の薪を細かく割るくらいには使えるので、趣味でキャンプに行く際に携行している。

近代化に伴い道具は技術の進歩により様々に形を変え、多様化した。その変遷の中で、今では使う機会が無くなってしまった道具は数多くある。「誰でも使える」という利便性は高まったが、道具の種類は減った。刃物においても電動化や、木以外の加工が容易い新素材の登場により使用用途が消失したものが多い。鍛治職人の仕事も年々縮小してきている。

ただ私はそんな昨今だからこそ、自分の道具に愛着を持つことの重要性を伝えたい。作品制作のみならず、仕事でも、勉強でも、あらゆる活動において道具とは、「相棒」である。相棒への愛が強いほど、良いパフォーマンスを生む。活動は豊かになる。私が祖父から貰った鉈は、私以外の人にとっては価値が無いし、使おうとも思わないだろう。ただ、それでいいのだ。なぜなら私はこの鉈が好きだ。この鉈で薪を割る時間が好きだ。道具はもっと、そう思われるべきだと思うのだ。

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