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資本主義と民主主義。相反するイデオロギーが併存する意味と私たちに内在する自発的対称性の破れという原罪

※この記事は過去に書いたいくつかの記事をまとめたような記事になっています。興味をもった方は過去記事も読んでみてください。

見ていてとても辛い動画でした。

この動画をぼんやり見ていて。まいたいつもの論点か、、本当にこの問題の繰り返しだな、、、、と、もううんざりしてしまいました。(この世界のシステムの矛盾が浮き彫りになっている動画です)

相反するイデオロギー、資本主義と民主主義

とてもありふれたテーマですが、真面目に語ってゆきます。

私たちがこの世界で生きる上で、なにを重要視すべきか、正義とは何か、という問題はつねに私たちに付きまとっていますよね。

ルターの宗教改革以降、教会権威は失墜し、代わりに生まれたのがベンサムの功利主義的正義でした。利益を最大化する行動原理こそが正義だという価値観。一方で、社会契約論的な正義も生まれました。個人よりも社会全体にとって利益となる行動原理こそ正義だという価値観。

動画で涙を流しながら酷い実情を訴えている女性はまさに後者の価値観です。正義感に満ち溢れています。見ていてこちらまで辛くなります。
ただ、仕事を失いたくないから病院の方針に従おうとする人たちも正義なのです。それが功利主義的な正義。

他人を思いやる行動も、自己保身の行動も、実はどちらも正義なわけです。なぜこんな相反する矛盾する正義が併存し、常に対立するのか?それは民主主義と資本主義が併存しているからですね。
相反する二つのイデオロギーの併存こそが根本の原因です。

私が学生のころはこのような論点の評論がよく教材にされていました。英文解釈の問題でもよく見た論点です。だから、なんとなく皆が認識している問題であり、また、とても身近な普遍的なテーマだと言えると思います。
でも、なぜか、コロナという未知のウイルスが蔓延し、とうとう米露が戦争をはじめてしまった今日において、今こそ議論されるべきこの論点が話題にされることはない。本当に議論が必要なときになぜか完全に影をひそめてしまったテーマ。

単に教材の上にだけ存在する普遍的テーマ。

では、なぜ併存しているのか?
それは「資本主義の勝者が民主主義という牧場を必要としている」からです。これにつきる。だからアローの不可能性定理など問題にはならない。民主主義が公正に存在しえないとしても、資本主義にとって民主主義は必要なのである。
資本主義(巨大資本)というのはマーケット無しには存在できない。貨幣価値を信じる多くの家畜が必要なのです。その家畜がいるからこそ、資本主義の勝者が勝者であり続けることができる。

ピケティがやったことの重要性を改めて認識させられてしまう。
彼は民主主義が奴隷制度であると膨大な資料から説明しようとしたのです。
我々庶民とっては相反するイデオロギーのように見えますが、実は巨大資本からしてみれば絶対に資本主義と民主主義はセットで存在しなければならないのです。これが資本主義の本質というわけです。資本主義は民主主義を要請するのです。

牧場としての奴隷制、そして民主主義へ

功利主義的正義が生まれた当時の英国は、農奴の解放と相まって貨幣経済が浸透、巨大資本が生まれ資本集約型の産業が可能なった時代。その結果として産業革命が起きた。ただ、一方で、エリック・ウィリアムズの主張はその通りで、資本主義は奴隷制(植民地)なしには存在できなかった。
かれは歴史学者ですが資本主義の本質を明快に説明しています。
資本主義は民主主義を要請する。
つまり、現代では奴隷はいてはいけないことになっているので民主主義と名前を変えただけで、資本主義における民主主義は奴隷制(家畜制)なのです。

エリック・ウィリアムズ
著書『資本主義と奴隷制』が有名。

エリック・ウィリアムズは奴隷制の廃止もまた資本主義の要請と分かっていた。奴隷制よりも民主主義の方が規模も大きく利益を最大化できるため、
資本の側が快く奴隷制を廃止したことを彼はよく理解できていた。資本主義は家畜の要望をよく聞いてくれるのだ。
重金主義、重農主義、重商主義という流れは分かりにくい。奴隷制から民主主義へ、という流れで理解するとよいのです。
資本主義の走狗みたいなエセ経済学者が多すぎてシンプルな流れがなかなか世間に伝わっていない。経済学がそんなに難しいでしょうか?とてもシンプルですよ。

※念のため補足すると、貨幣経済の浸透が農奴を解放したことは事実。そういう意味において貨幣経済には良い側面もあった。ただ、そのまま、共産主義的、理想的社会に向かうことがないのがこのシステム。必然的に巨大資本を誕生させ、暴走し、科学と結びつき、最終的には自己崩壊する(詳細は後述)。

私たち個々人のことを家畜だとかゴイムだとか冗談交じりに形容する言葉はよく聞かれますが、その意味をよく理解する必要があります。そういう言説は陰謀論ではなく、実際に私たちはシステマティックに奴隷(家畜)にされているのです。


巨大資本の牧場としての民主主義。民主主義という家畜制度。

繰り返しになりますが、庶民(家畜)にとっては相反する二つのイデオロギーが併存しているように見えますが、勝者からみれば、両方とも必要不可欠なイデオロギーということになるわけです。

滑稽なのは、アングロサクソニズムは彼ら以外を家畜とみなすイデオロギーですが、動画を見ると、彼らの内部でも、弱肉強食のシステムを構築しているようです。恐ろしい連中ですね。完全に彼らの内部で自己崩壊が起きている。

さて、功利主義的正義と社会契約論的正義、どちらも正しいと言いましたが、それは本質論としてです。
まともな学問なら、まともな哲学者なら、「神はすでに死んでいる。だから、本質的に正義などない。」などと答えるでしょう。最近の若者はもっとひどい状況。「正義って何?あ?何言ってんだオッサン?」的な感じでサラリと流すのカッコいいようです。ボカロ曲の歌詞にこういうセリフが多用されているのです。

でも、本質論的な議論はそもそもナンセンスです。(お釈迦様のような直感による世界把握が出来なかった西欧人には必要な過程だったのかもしれません。)私たちは地球上で暮らす人間なわけです。巨大資本が科学主義と結託し、何をやってきたか?結局は他国や他民族の搾取、隷属化、そして戦争、はては地球環境の悪化です。
夏が本当に暑すぎます。(これほど夏が暑いのに、まだ功利主義的正義なんて言ってる人はよほど頭がどうにかしていると思います)

つまり、シンプルに社会契約論的正義が正しいに決まっています。
どちらの正義論も本質論としては等価値ですが、私たち人間は、この地球上で痛みや飢えを感じる生命体である点において、ある任意の観点に立っているわけです。都合の良い時だけニヒリストになろうとするアホな学者の詭弁に付き合ってたらバカになります。というか自滅します。若者がそういうメディアの洗脳に簡単にだまされてニヒリスト的姿勢をカッコいいと思ってしまう傾向は非常にまずいと思います。

ジョン・ロールズは気合が足らなかった。それから、マイケル・サンデルなんて大嫌いです。なに言ってるか分からないし、専門分野しか勉強してない「専門バカ」丸出しすよ。アメリカ人らしいですね。なんでも相対化してしまおうとする。都合のいい民族です。
両論併記してればいいって話ではないのです。
言葉遊びをしてるわけではないのです。英米はプラグマティズムが主流でどうも場当たり的な論説が目立つ気がします。これがプロテスタンティズムの本質なのでしょうね。

※パットナムなど、アメリカにもソーシャル・キャピタルの概念を提唱したまともな人々もいたが当然社会から抹殺されました。

功利主義的正義を究極的に求めた先にあるのは、結局は社会契約論的正義なのです。アダム・スミスが言った通りですよ。つまり、社会契約論的な他者への共感なしに私たちは社会生活を営むことができない。農耕牧畜が始まった時にそれは決まっていたのです。功利主義的正義は詭弁です。(このあたりの話は過去記事でなんども紹介しています)

最小限の労働で皆が豊かで幸せに暮らせる世界はもう実現可能です。そもそも、そういうシステムを今目指さなければ手遅れになるのではないでしょうか?バカみたいな過当競争にさらされて思考停止になるのは止めましょう。あとは組織論や資源配分の問題です。意思決定の問題です。
そもそもアマルティア・センが指摘したように、競争が均衡をもたらすわけではなく、失敗をもたらすこともある。地球環境の悪化やコロナの発生を招いた自由競争が良いとは限らないし、そのことはもはや明らかでしょう。ハイエクもペテン師だった。自由競争なんて最初からウソだった。当初から巨大資本が成長してしまい自由競争なんてありえなかった(当初は帝国主義と巨大資本が結びつき成長した)。
私たちを過当競争にさらして家畜の檻に閉じ込めようとするプロテスタント・巨大資本。もともと、教会権威に逆らって生まれてプロテスタントは、平等・平和・地球環境の改善に徹底的に抗う抵抗勢力となったわけです。
きれいごとを言っても結局は権力争いでしかなかったわけです。

そしてとうとう中露やら共産圏と英米やら西側との戦争が起こった。これは偶然おこったわけではないでしょう。明らかにイデオロギーの対立です。もともと欧州は社会契約論的正義論が主流で共産圏と相性が良かった。英米アングロサクソニズムがそれを嫌ったのは明らかである。(この紛争に関しても過去記事で真実を紹介しています)

資本主義こそが原罪(自己崩壊)へ誘う蛇ではないのか?

少し端折しりますが、この先、人間が、結局、社会契約論的正義を実現できないのではないか?という問題があります。なぜなら人間自体が、滅びの使徒である可能性が高いからです。つまり、システムとしてこの世界が滅びに向かっている可能性である。わたしたちは、究極的には社会契約論的正義(本当の意味での共産主義と言い換えてもよい)という均衡を手に入れることがでいないのではないかという問題です。

この問題は、イデオロギーの自己崩壊という社会的な問題ではなく、私たち人類の生存にかかわる問題だと考えています。どう考えても、私たちは滅びに向かっているとしか思えない。RNAの相互依存システム(生態系)の摂理から飛び出して自分勝手に生態系を作り変えようとする人間は、南部洋一郎の言葉を借りれば自発的対称性の破れでしかないと思うのです。

特に、産業革命以降、巨大資本が近代科学を手に入れることで自己崩壊は加速したと考えていますが、今日、人類がゲノム編集技術を手に入れることでさらに崩壊のスピードが上がったと考えています。(同時に、カーネマンの行動経済学を手に入れることで究極化した)

回転対称性という宇宙の摂理の中で生きる人間の心臓はなぜか左側に位置している。これはとても怖い事でもある。対称性が自発的に破れるということは宇宙のシステムにおいては常に在ることですし、それが本質ではないのでしょうか。
均衡の中からビックバンによって宇宙が生まれたように、生態系という均衡のなかからトンネル効果的突然変異によって破壊者である人類が生まれたのではないか。最近はよくこの考えが頭をよぎる。

突然変異的進化によって生まれた人類が脳を発達させて農耕牧畜を始めて、人口が増加、必然的に貨幣経済を生み、結果として資本主義が生まれた。その資本主義がまた必然的に科学主義とむずびついて巨大資本による暴走・環境破壊がもたらされた。

地球環境における生態系は、対称性を自発的に破って生まれた人類が資本主義によって増幅させた科学技術によって滅ぼされ、人類も自己崩壊する宿命ではないのか?

原罪としての人類、資本主義による環境の破壊者

すこしちがう観点からも話してみます。

アダムとイブが禁断の木の実を食べてしまった罪を「原罪」と言いますが、免疫システムにも「原罪」があります。これは抗原原罪と呼ばれます。

ある種のワクチンで抗体を人工的に産生させてしまうと、その後、変異種に対応するワクチンを打ってもその変異種に対応した抗体が出来にくくなる。これがコロナのワクチンでも見られるという。サイエンス誌によれば武漢型を何度も打ってしまったため、オミクロン型のワクチンを接種しても、もはやオミクロン型の抗体ができなくなってしまったようだ。
だからメーカーは、武漢型とオミクロン型の二つを混ぜてワクチンを作った(二価ワクチンと呼ばれる)。そうすると、オミクロンと武漢型に共通する部分の抗体はできる。
つまり、オミクロン型と言いながら実は武漢型なのである。
さらに問題なのは、この共通部分の抗体は感染を増強させる抗体なのだそうだ。もう滅茶苦茶で笑えてしまう。

さて、人間は小さなプランクトンだった時代から外部の環境をRNA経由で取り入れて現在の姿になった。ウイルスからの影響が10%程度。内在性レトロウイルスとして我々のゲノムに定着して現在も存在している。

原罪というのはRNAの自己崩壊のメカニズム(生態系の禁忌)ではないかと考えている。RNAは生命体が環境適応できる仕組みであるが、なんにでも素早く対応できるわけではない。素早く対応できる方向とそうでない方向がある。素早くできる方向は長い歴史において許された方向であり、対応できない方向は、同じく長い歴史において禁忌とされた方向だろう。

牛に牛を食べさせると狂牛病になる。

絶対に許されない方向がある。つまり禁忌である。
ワクチン接種というのは実は禁忌なのである。抗原原罪という免疫の仕組みで明らかだが、実は、このワクチンこそが原罪なのである。生命体が本来やってはいけない方向なのだ。

原罪に誘うのは蛇ではなくて人間存在の本質でないのだろうか?

数学や科学は人間の方法であり万能ではないはずなのだが、人間はこれを絶対視し、無邪気に使いこなそうとするが結局はすべてを破壊してしまう。
実際には、実在の世界は人間のたどり着けない認識限界の先にある世界で、その折衷案としてボーアのコペンハーゲン解釈がある。ゲーデルも真実に辿り着けないことを数学的に証明した。フッサールやボーア、ゲーデルは人間の限界を証明したはずなのに、巨大資本と結託して未だに暴走を続ける科学、科学主義(巨大資本主義)。(このあたりの話も過去何度も記事にしました。ペンローズなど、問題のある科学者は多いが、探求を止められないのは、科学自体が内在する自己膨張が原因である)

こうなるのは、結局、科学(資本主義または貨幣制度)が人間を自己崩壊に誘う蛇だからではないか?

行動経済学において、人間の認知機能の欠陥が次々と明らかになっているが、これも原罪という概念で説明できる。
行動経済学は人間が数学的な合理的判断ができないことを欠陥(認知バイアス)とみなすが、生態系の均衡という観点からは欠陥ではない。西欧の作り上げた不安定な合理主義がそれらを欠陥とみなし、人間をだますマーケティング手法を開発した。そしてその結果、資本主義が究極化し環境破壊をもたらした。人間の認知機能を逆手に取るマーケティングを開発して経済競争したら環境が恐ろしいほどに悪化したという落ちなのである。
もう笑えてしまう。数学的合理主義は地球環境(生態系)という観点からは合理的ではない。何度も言うが、数学は人間が考案した自分勝手な方法であって神でもなく真理でもない。

上で説明した二価ワクチンで出来た抗体が感染増強抗体だったという落ちと同じである。西欧の合理主義思想というのは極めて傲慢だし欠陥だらけなのだ。そもそも環境(生態系)の上に我々の生活が成り立っていることをほとんどといっていいほど考慮しない。まさに西欧の思想こそが認知バイアスそのものなのだ。マックス・ウェーバーの罪は極めて重い。

アダムとイブは禁忌を破って突然変異的に生まれた生命体である。ワクチンの開発やゲノムの編集、果ては地球環境破壊など、結局は人類や地球すら滅ぼすように方向づけられた禁忌の化身なのだろう。人類の誕生こそが原罪なのだ。
知恵の木の実を食べることによって生じた突然変異は、結局は自発的対称性の破れという意味での破壊者を生んでしまったのだと思う。
ビックバンによって均衡が破られ宇宙が誕生したように、人類によって生態系という均衡は破られる宿命なのだろう。

そもそも均衡という概念がおかしかったと思う。
我々は、ビックバンで生じた一瞬の輝きの中で生きているにすぎないのだ。輝きが一瞬である理由は人類が自己崩壊するからではないだろうか。

以上です。