命[メイ]

 春の終わり、夜はひんやりとしていたが、空気はすっかり新しい季節を迎える準備ができていた。川辺の公園に、一人の中年の男がベンチに腰掛けている。男の名は健一。彼は何もない夜空をぼんやりと眺めながら、小さな箱を手の中で弄んでいた。その箱は古びており、中には真新しい鍵がひとつだけ入っている。

 健一は溜息をつき、何度も目の前の光景を確かめるように川を見つめた。最近、彼の生活はめまぐるしく変わっていた。長い間勤めた会社を辞め、今は退職金で細々と生活している。妻とは二年前に離婚した。理由は明確ではなかったが、心のすれ違いが積み重なり、何もかもが複雑に絡み合って、ついに終わりを迎えた。

 だが、健一を悩ませているのはそれだけではない。数日前、旧友の藤井から電話がかかってきた。十年ぶりの連絡だった。藤井は、健一が若い頃に一緒にバイクで旅をしていた仲間で、酒を飲み交わしながら未来の夢を語り合った相手だ。

 「健一、あの時のこと、覚えてるか?」

 突然の問いかけに、健一は戸惑った。あの時? どの時のことだろう? 藤井は続けて言った。

 「俺たちがさ、あの山道で事故に遭った時のことだよ」

 その瞬間、健一の心臓が一瞬止まったかのように感じた。確かに、あの時のことは覚えている。二十代の頃、彼らは無謀にも夜中に山道をバイクで走り、カーブを曲がり切れずに崖から転落しそうになった。しかし、奇跡的に二人とも命に別状はなく、その場は「無傷で済んだ」という安堵で笑い飛ばしていた。

 「なんだ、そんな昔のことか。まぁ、覚えてるよ」と健一は軽く返した。

 しかし、藤井の声は少し違った。

 「俺さ、最近ずっと考えてるんだ。あの時、もし俺たちが死んでたら、どうなってたんだろうって」

 健一は、何も答えられなかった。

 「俺はもう家族もいないし、仕事だってうまくいってない。生きてる意味ってなんだろうな。あの時、死んでた方がよかったんじゃないかって、時々思うんだよ」

 その言葉に、健一は寒気を覚えた。藤井の言葉が妙に現実味を帯びて感じられた。健一自身、最近は生きる意味を考えることが多くなっていた。仕事や家庭の失敗が重なり、すべてがうまくいかなくなった今、「なぜ自分は生きているのか?」という問いは日常的に彼の心に重くのしかかっていた。

 「そんなこと言うなよ。俺たちはあの時、生き延びたんだ。それで十分だろう」

 健一は、無理に明るく言い返したが、藤井の沈黙は続いた。気まずさから電話はそれきり終わり、その後連絡が途絶えた。

 そして今日、健一は藤井の訃報を聞いた。自ら命を絶ったという。信じられない思いで、健一は家を飛び出し、この川辺にたどり着いた。昔、藤井と一緒に釣りをした場所だ。今はただ、水の音だけが健一の耳に響いている。

 手の中の鍵は、藤井の遺品だ。遺書には、「これを健一に」とだけ書かれていたが、鍵が何のためのものかはわからない。健一はただ、これを握りしめていた。

 「生きてる意味って、何なんだろうな…」

 健一は呟いた。藤井が抱えていた孤独、そして自分の中にある虚しさ。それらが重なり合い、健一の心は言いようのない苦しさに押しつぶされそうだった。彼は自分の生き方が間違っていたのか、それとも藤井が何かに絶望してしまったのか、答えは出ない。

 突然、健一のスマホが鳴った。画面を見ると、かつての同僚からだった。ためらいながらも電話を取ると、明るい声が聞こえた。

 「健一さん、最近どうしてる? 久しぶりに会わないか?」

 その瞬間、健一の胸の奥で何かが動いた。誰かが自分の存在を気にかけている、その事実が不思議と彼を安堵させた。生きている意味は、もしかしたら他人との繋がりにあるのかもしれない。健一は、手の中の鍵を見つめた。藤井は、最後に何を伝えたかったのだろうか。その答えはまだわからない。しかし、彼が今感じているこの小さな温もりが、何かのヒントになるような気がした。

 健一はゆっくりと立ち上がり、川辺を離れた。これから先、何が待っているのかはわからない。それでも、生きていくしかないのだと思いながら。

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