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この時代にフロイトを読む意味

私が初めてフロイト全集を手に取ったのは、大学4年生の春休みだ。
心理学の授業で「大学に来て心理学を学んでいるんだったら、フロイトくらい読んでおいたらどうですか」とある教授が言った。その教授はとてもシャイな人という印象があった。その先生がかなり感情を込めて「フロイトくらい」と半笑いで言ったことが妙に心に引っかかり、図書館でとりあえず全集をコンプリートしようと思いたった。当時の私は将来の道を試行錯誤しており、何か自分の指針になるものを探していたのかもしれない。海外旅行に行く友人には、「そんなことするんだ。でもそれも今しかできないことだね」と半ば呆れながら言われた。彼は優しくて賢い人で就職も決まっていた。そう、時間の無駄かもしれない。でも、せっかく大学に来たのに散々遊び呆け、「読むべきものを読んでいない」ことに私は焦っていた。

とうわけで、バイトの合間に毎日全集をめくってはみるものの、内容は全く入ってこなかった。本の紙質や字のフォントが良いなと感心したくらいだ。背伸びしてみたけれど、私には心理学や無意識について学ぶセンスがないのだとも感じた。言葉が分からずに落ち込むくらいなら海外旅行に行った方が楽しかったけど、まあいいか。とりあえず未知の世界に触れ、「読んだ」と言えるようになったことで私は少し安心した。

その後、私は心理学系の大学院に進んだ。私はそれでも人の無意識をアカデミックに知りたかったし、人間が起こす様々な問題(環境破壊や紛争など)に心の面からアプローチすることに興味を持った。その根底には自分の存在をより良いものに変えたかったという思いもあるが、それはまた別の話。

大学院では、半年をかけてフロイト全集を読む少人数の授業があった。私はこれでフロイトが分かるようになるかもしれないと期待を抱いたが、やはりフロイトを消化することはできなかった。フラストレーションがたまり、「なんで今フロイトを読まないといけないんだろう。時代が違いすぎて古くさいのに」と友人に愚痴を言っていた。「確かに」、と友人も頷いていた。

しかし、周りには「フロイトの『この論文』が好きでいつもカバンに入れて持ち歩いている」という先輩や、「『あの論文』に感銘を受けて何十回も読み直した」という先輩、そして「いつでもフロイトを読めるように、職場と家の両方にフロイト全集を揃えている」という先生などがいた。彼らに取っては、色褪せない魅力や学びがあるようだった。私には到底その境地になれません、と思いつつ、先輩が好きだと言っている「その論文」を探して読み直してみたりもした。

ご縁があって就職した後、大学院時代からの仲間に「フロイト読書会」を立ち上げるから参加しないかという誘いをいただいた。断る理由はなかった。そうしてオンラインで木曜の夜にフロイトを読み出してから、はや5、6年になる。初期にはフロイト大好きな先生にアドバイザーをお願いしていたが、その先生が提案してくださる分担量(ページ数)が、数10ページを1週間で読みきるというとてつもないもので、ほぼ全員の参加者が根をあげた。先生に助けを求めると、その先生にとっては「そんなに多いと思わなかった」。そして「時間をかけて繰り返し読むと読むスピードも速くなりますよ」。そんなものかと驚いた。曰く、無意識について書かれている内容だから、「何を言っているのか分からない」「何が分からないのか分からない」「結果、読むスピードが遅い」のは当然で、時間をかけて繰り返し読む内に段々速く読めるようになるという。

そう言われて初めて、今までの「分からなさ」や「盛り上がらない授業」の理由が分かった気がした。私もみんなも無意識の世界に触れるのが初めてだから分からなかったんだ。確かに、数年を経て読む今、「フロイトはこんなふうに考えていたのか」と思う体験がわずかに増えてきた。そうしてフロイトの言葉が今の自分と少しずつ出会っていく感覚が面白い。

人はそもそも「自分が分かっている範囲でしか分からない」。しかし、そのことを私たちは普段忘れて、全てを分かったような気になって他者や世界を批判したり評価したり一喜一憂したりしている。でも、本当は「自分には分からない範囲が広大にある」。自分には分からない未知の世界、いわゆる無意識は独自のシステムで動きながら存在し、私の一部でもある。

分からないことがあることを体験させてくれるのが、私にとってのフロイトだ。それは快いものではない。でも、分かった気になるのが一番良くないことだから、そして最近少し、前よりは楽しいと感じている自分がいるから、私は私を引っ張ってくれる友人が木曜日の夜にいる限り読み続けたい。1人で読み続ける自信はないし、読書会も「読むだけ・いるだけ会員」だけど・・。

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