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1.優しく静かな奇跡の出会い

収穫の時期を知らせようと、辺り一面に眩いほどの美しい黄金の光を放っている無数の稲穂たちが、みな一斉に神様に感謝するかのようにこうべを垂れている安らかな田園風景が広がる中にある

一本のあぜ道を、

母はただひたすらに、歩き続けていた。

73歳にしては歩く速度が速く、一緒に散歩するときなんかは、ついて行くのがやっとだった。

母の日課は、朝の散歩から始まり、父の介護、掃除洗濯買い物などの家事、精神病からやっと抜けた息子との会話というお決まりのパターンで過ぎていく。

朝の散歩は、母の唯一の楽しみだった。東の空から太陽が登ると同時に目覚め、すぐさま外に出る。そして自分の名前を小さく連呼しながら歩き、今日も元気でいられるようにと祈る。 

とはいえ母は、現実に疲れ果てていた。

好き放題生きてきた父にさんざん苦労させられてきた挙げ句の果てに介護という重荷まで背負わされ、おまけに自立への道をなかなか思うように進めない息子のことでも頭を痛め、

とにかく現実から逃げたい気持ちに囚われていた。

母が存在している光溢れるこの美しい世界に、気づくこともなく


私はある日、母に提案した。「今月は東北が吉方位になってるから、気分転換に今のお散歩コースを変えて、東北方面に歩いてみたらどう?」

すると母は珍しく、「そうなんだ、じゃあコースを変えてみるよ。」と即答した。

きっと、現実を変えたかったのだろう。

早速次の日から母は、散歩コースを吉方位の東北へと変更した。


そして

その日を境に、

母の運命は大きく変わっていった。


母はただ、これからも元気に生きられるようにという一心で、毎朝ウォーキングという運動をしている。けれど、「運動」は、「運を動かす」と書く。

母は自らの運を、

初めて自らの力で

動かすことにもなった。


ある日の朝、

母は一人のおじいさんに出会った。

その方は、とても83歳とは思えない快活さに溢れていた。

おじいさんの元気な勢いに押され、だんだんと引っ込み思案な母も、自分から明るく話しかけるようになった。

そして気づくと毎朝、おじいさんと会って話をするのが楽しみになっていた。

おじいさんと話しているときは、とても心が穏やかになり、たくさんの悩みが吹き飛ぶような軽やかな気持ちになった。

そのうちおじいさんは、決まった場所で母が来るのを待つようになった。   

母とおじいさんは、色々な話をした。

気づくと母は、朝の散歩が待ち遠しくなっていた。
いつ会っても穏やかで朗らかなおじいさんに、心の安らぎを感じていた。

その気持ちは、おじいさんも同じみたいだった。

ある時おじいさんは言った。


「わしとおまはんは、縁がある」


毒親育ちの母は、誰かとの心の繋がりを感じたことがこれまで一度もなかった。

いつも相手に合わせ、自分の感情を押し殺すように生きるという

「闇」を生きてきた。

そんな母が初めて、おじいさんと安らかな心の繋がりを感じた。

母はいつも、人に気を使ってきた。けれどおじいさんといるときは、気を使う必要がなく自然体でいられた。

もしこれが、73歳と83歳の恋愛にまで発展すれば、世間では「不倫」と定義されるのだろう。

それとも、ただ心の繋がりに安らぎを感じるだけの関係であれば、「友情」と呼べるのだろうか。

おじいさんは、

「おまはんの、颯爽と歩く姿が良い」

と母に言った。

確かに母は、年の割にかなり歩くのが速かった。そして母の歩く姿は、生命エネルギーに溢れていた。

そんな母のエネルギーが、いつの間にかおじいさんのエネルギーにもなっていた。

会えばいつも、笑顔で前の日にあったことをお互い話す。そんな母の早朝の楽しみがずっとこのまま続きますようにと祈った。

優しいおじいさんとの出会いで、母はなんとも言えない穏やかさに包まれていて、とても幸せそうに見えた。

恋と呼ぶには

あまりにも清らかな思いだから、

誰かを傷つけるようなことは絶対にしない母ですから、神様どうか、そっとしておいてあげて下さい。


人は多分誰でも

生まれてきた証として

波紋のように静かに広がっていくような

誰かとの深い心の繋がりを

切に願っている。


相手の心の中でただ

優しく静かに広がり続けたくて、

無意識のうちに

愛という永遠を祈っている。


果てしなく広がる自然も、あらゆる生命も、

もともと自らの中にある愛を

ただ祈っている


母の祈りは、届くのだろうか。


母がこれまで背負ってきた数々の闇さえも

すべて光に変えてしまうかのように煌めく

金色の稲穂が広がるのどかな田園風景の中、

ある日、

おじいさんは

そっと手を差し出して

母に言った。


「握手しよう」












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