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あなたは誰ですか?どこから来て、どこへ向かいますか?それは何故ですか?

さて、この問いに向き合うのも3年目。
いよいよ次のLAPが始まるなぁと実感します。

あなたは誰ですか?どこから来て、どこへ向かいますか?それは何故ですか?


わたしは、きょうかです。
地元・長崎を遠く離れて、信州という美しい土地で人と人のつながりについて学んでいる大学生です。

わたしの中で、つながりというものは特別な意味を放っています。

もともと積極的に人と関わるタイプではなく、他人にどう思われてもいいから自分がよいと思うことを貫きたい、そのために嫌われても仕方がない、と考えるような他者に対する期待も薄い人間です。

みんながそうだから自分もそうする、という感覚を理解できず
学校という共同生活の場では、いつも「ここではない場所に行きたい」と思っていました。

わたしの根底には「いつ死ぬかわからない」という考えがあります。
自分に認められること、自分に嫌われないことが一番たいせつで
どんなに社会的に評価されていても、いつ死ぬかわからないのなら
それだけでは意味はない。
好きなように「いま」を生きる。

そう考えている一方で、そんな風に自分というものにこだわっていることを
小さく感じてもいました。

みんなが笑っていればそれでいいじゃないか

我を忘れて、自分を投げ打ってでも取り組みたいことがあるとは
なんて鮮やかだろう

アート表現や対話、大学での研究(フィールドワーク)を通して、つながりを実感するたびに
自分と他者を身体的な境界線で区切ることは無理がある
人は様々なつながりの中で生まれ・生かされているのだと
思い直していきました。

だから、いまは世界の中に自分を溶け込ませたいと思うようになりました。

わたしと世界は、決して同じではないけれど、異なる2つ同士でもない。

そういう自分をいいと思える自分でありたい。


それでも世界は美しい


これからの生き方としては、多様な価値や選択肢を表現する存在でありたいです。
そして、人生と書くからには「人間として」を生きたい。
今はまだ明確に人間とは何かと答えることはできないけれど、感覚的に「これは人間としてすべきでない」ということはわかる気がします。

怪我をしている人がいたら手当をする
食べ物がない人がいたら自分の食べ物を分け合う

目の前で傷ついた人を放っておく、責任という言葉や個人の世界で分断しない
そんな人間としてすべきことをして、すべきでないことをしない人でいたい。

大学での研究も含め、地域で活動する中で社会的マイノリティ(既存のシステムや価値観に適応できない人)と出会い、そのことに向き合っている人たちとも出会いました。
わたしも多くの場面で「馴染めない」と思って生きてきました。同時に、多くの人に馴染むために(マジョリティの世界に入れてもらうために)生きているわけでもないと強く思ってきました。

社会はどうしてもマジョリティを前提に動きます。
ときには、マジョリティですらない圧倒的な力のもとに暴力や迫害も起こります。

人間はひとり一人異なるのに、単純な価値基準だけで測られれば
苦しいのは当然です。

自分とは異なる他者を想像できること
違う価値があることを受け止めること

わかりあえない私たちだけど、みんなで笑い合っていること、食べ物を分け合っていること、助かり合っていることが美しいのだと思います。

わたしは、その美しさを表現したくて生きているし、生きていくでしょう。


写真をはじめアートが好きです
色々なことを問いかけることができる気がするから



なぜLAPで学びたいか?


まず、対話が好きだからです。

わかりあえなさから、お互いに橋を架けて
それぞれの目になって世界を探ってみる。

高校1年生のときに対話と出会って、世界がガラッと変わりました。

それまでは、わかりあえると信じているからこそ、コミュニケーションを省略したり、違うと言うことは悪だと攻撃されたりした。
相手をいかに言い負かし、自分の要求を通すかが肝心だった。

対話をするということ
心理的安全性がある場で、ありのままの自分で話せるということは
人を生き生きとさせるし、ひとりでは辿り着けない場所へ連れて行ってくれるものです。

そういう場で、ほんとうの交流をしたいと思っていたし
その関係性を育ててみたいと考えていました。


つぎに、いま・ここの世界はどのような文脈の上になりたっているのか知りたかったからです。

自分はどのような社会を生きているのか、そのことに自覚的になることで
ソウゾウする力を身に着けたいと思っていました。

ここでいうソウゾウとは、自分とはことなる他者を想像できること
(他者とは、自分の意思でコントロールできないものを指すと考えているので広義で捉えると自然環境なども個人的に含んだ意味で使っています)
そして、既存の枠組みにとらわれないものを創造することです。

社会的マイノリティの人々、生きづらさを抱えた人と共に在って、様々な価値や選択肢を表現したい。
そこには「知る」、「学ぶ」ということが自分以外の誰かを思いやるためには必要だと思います。

助けようとすることをやめる。

助ける・助けられるのではない。
助けるという言葉には対象が必要だ。それだとまた分断されてしまう。
当事者だと、自分事だとかかそういう話になってしまう。

わたしたちはただ、みんなで助かろうとしているだけなんだ。

生きづらさを生み出している構造の中に私もいる。
そのことを自覚して問い続けなければいけないと思う。

したがって、わたしはLAPという学びの場に身を置きたいと考えています。


あなたは誰ですか?

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