御本拝読「炎上CMでよみとくジェンダー論」瀬地山 角

新書という文化

 海外の出版事情を網羅しているわけではないので完全に個人の感想だが、日本は出版される書籍の物理的な種類が多いと思う。洋書だと、硬くて分厚くて高価なハードカバーか軽くて安価なペーパーバックか。アメリカンコミックやフランスのバンドデシネも、日本の書店の漫画コーナーほど細かい形態の違いはないかもしれない。日本では、一般書のハードカバー、ソフトカバー、文庫本、多種多様な漫画、そして、「新書」がある。老舗のブルーバックスはじめ、いまや各社が自社の新書シリーズを毎月何冊も発行している。
 新書は、研究者が同じ研究者や業界向けに書いた専門書ではなく、自らの研究の一部をかなり優しく丁寧に一般人に向けてかみ砕いてくれているものが多い。専門用語や専門知識も注釈や解説がつくし、なにより、研究のテーマと結論があの薄さの一冊の中で完結する。分厚いハードカバーだと挫折しがちでも、新書なら一冊読み切るのは比較的簡単。新書を一冊読みきると、ちょっと賢くなれた気がする。(この時点でアホ丸出しなわけだが)
 文庫本よりも一回り大きく、ソフトカバーより一回り小さい。小説やエッセイという娯楽ものではないが、学術書でもない。漫画ほどキャッチーでもないが、新聞記事よりは分かりやすい。まさに、名実ともに、「いろんなものの中間」にある新書
 私は、この新書という文化がとても良いと思っている。各社、各レーベル、自然科学や社会問題、時事や政治といったそれぞれのジャンルで面白いものを出している。ハードカバーで大々的に売り出すのにはリスクが大きいアングラのルポや、万人受けは難しい主張の研究者の本なども。専門家でも研究者でもない一般人が、少しその世界に興味を持ったり問題意識を持ったりする、良いきっかけになると思う
 まあ、大学図書館勤務時代にひたすらこの各社の新書の目録データ作成や装備をしていたこともあり、愛着もある。ちょっと読むと「いやトンデモだな!!」と突っ込んでしまうようなものもある。だけど、それも含めて新書のかわいらしさ。
 そんな新書の中でも、実に新書らしくて個人的にも痛快だった一冊を。ジェンダーの研究者である著者(1963年生まれの日本人男性・子育て経験あり)が、私たちの傍にある媒体におけるジェンダー問題を、学術的観点とデータ、そして軽妙な語り口で読み解いてくれる。光文社新書より。ここの新書は読みやすくて好きだ。
 

平等に毒を吐く

 初めに言っておくと、かなりパンチの効いた論説(お笑い芸人の所謂「毒舌ツッコミ」のようなインパクト)なので、人によっては不快にも映るかもしれない。私は好きだが、かなり好き嫌いや賛否が分かれる本だとも思う。冷静さや公平を欠く、と受け取る人もいるだろう。確かに、著者個人の感覚で論じられるところもあって、セーフとアウトのラインが曖昧に見えるかもしれない。だが、全体を貫く芯は一貫しており、特に終論に向けての真摯な論説は胸に響く
 広告とは、その商品の購買層の購買意欲を刺激して自社の売り上げを伸ばすために為される。サービスや観光であっても同じだ。故に、まずはターゲットとなる購買層に訴えかけるCMを打ち出す必要がある。子供向けの商品のCMにアニメキャラを使ったり、家族向けのサービスのCMでは仲良しの家族のイメージを使ったり。
 が、同時に、広告とは基本的に「誰もが目にする」ものでもある。性的イメージを惹起させる広告が成人向けポルノ商品の中でだけ使われるならまだしも、普通の飲食物や日用品の広告であれば街中・テレビ等で嫌でも目に入ることになる。そのことを軽視というか、あまり熟考せずに世に出してしまって批判を受けた各社や自治体等のテレビや街頭でのCMが、本書のテーマ。
 女性にイメージや役割を押し付ける事態をぶった切っていく著者の語り口が軽妙(時に大げさなほど面白い)なのでつい笑ってしまうが、それは私が女性だからかもしれない。「企業や自治体の運営の決定権を握るのが中高年男性ばかり」という構造の問題でもあるのだが、男性で、学術的な地位や知識のある著者がすぱっとやってくれるのが、幕府や金持ちを批判・揶揄する浮世絵師と印象が被る
 しかも、よくあるジェンダーや女性解放的なものと違って、本書では「男性への押しつけ」もきちんと論じられている。死ぬほどばりばり働いて一家の大黒柱になるのが当然、と押し付けられる男性の負担や苦しさ。これを、ジェンダー論の本の中でここまで掘り下げているのは珍しい気がする。
 性的サービスや家事子育て全般を押し付けられる女性。労働と「男らしさ」全般を押し付けられる男性。互いへの反撃のように押し付け合う両者を、著者はまったく平等にぶった切っている

大学教授として

 私は、終章を読みながら、首がとれるほど頷いたし膝を叩きまくった。この章は、著者が大学で教鞭をとっておられるからこそ説得力が増す。
 某国際支援団体のCMで、主にアフリカ地域での少女が教育の機会を奪われ(るどころではない深刻な人権のはく奪行為だと思うが)ているというものがある。あのCMであの団体に寄付するかはさておいて、「女の子」というものは多かれ少なかれ「成人・就労するまでの教育」においてハンディがあると実感している。もちろん、各家庭の状況に大いに左右されるとは思うが。
 私の場合、完全に「大学行くなら国公立しかダメ、地元の近くしかダメ、浪人ダメ、就活に有利なとこ」で現役で地方国立大学の法学部に進学したクチである。そして、進学先の大学の女子の多くは、似た状況の子だった。旧帝大はギリ届くか届かないか、ならもう諦めて絶対大丈夫な地方国立へ、そして就職先は地元か大阪の「実家にアクセスしやすいところ」
 これは本当に性差による能力の差ではなく、そういうことを踏まえて入学した女子学生は、割とクールで優秀な子が多かった。あまり葛藤や挫折なく入学した子が単位や信用を落としまくっている中、彼女たちは処世術として愛想も付き合いもよく振舞いながら、冷めた目で淡々と親や周りが勝手に敷いたレールを眺めていたのだ。
 私の三歳下の弟が、二年浪人(予備校通学)して理系の公立大学へ行き、二年留年して卒業、一年就職浪人(以上すべて親の仕送りで生活)したことを考えると、うちの家庭が教育にかけるお金がなかったとは考えにくい。ちなみに弟は就職直後に結婚・子供も生まれて、今は家族ぐるみで親の実家で同居している。正直、病気療養中に実家にいた私が朝から晩まで家事や家族の世話に追われ、最後は自分がバイトして貯めたお金で逃げ出して、以降は親と絶縁に近い状態で生きていることを考えると、「男の子はいいけど、女の子はダメ」の典型例だと思う。
 閑話休題。自分でもナチュラルに「世の中はそういうものだ」と飲み込んでしまい、声を上げない女子学生は多い。後年、女子高育ちや一人っ子お嬢さまという人たちと触れ合うと、必ずしも「そういうもの」ではないことに気づき、やり場のない怒りを抱えることもある。
 前述の、「企業や自治体の管理職以上に中高年男性しかいない」構造のそもそもの問題の根はここにある。キャリアを積むための第一歩を、男子学生がアスファルトを運動靴で、女子学生はぐちゃぐちゃの沼地を裸足でスタートする。がむしゃらに頑張って肩を並べたと思ったら出産や育児でさらに沼地へ、体力的な限界がきてリタイアする女子も多くなる。結果、最初の差が埋まることがなく、広告をはじめとする多くの決定権は、順調に走れた男性だけが持つことになる
 「自分が履かせてもらっている下駄の高さに気づいていない」。この一言が、私をほっとさせてくれた。教鞭をとる男性が、これに気づいて言語化してくれたことが、無性に嬉しかった。確たる証拠もないし、現実として地方国立しか受からなかったし非正規雇用で食いつないでいくしかない自分が言えなかったもやもやを、著者はこの終章で簡潔に論じてくれた。

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