御本拝読・宮沢賢治

私と賢治の因縁

 私が初めて宮沢賢治に触れたのは、小学校高学年。教科書の「やまなし」だった。鮮明に覚えている理由は、「やまなし」が理由で授業中に担任やクラスメートたちから笑われたという嬉しくない記憶があるからである。
 『「クラムボン」とは何か?』という問いに、全員が一人ずつ答えを紙に書いて(答え一つと名前を記入)答えた時。クラスの半分くらいの答えが「泡」で、次に多かったのが「太陽(光)」、2・3人ずつ「虫(アメンボ等)」「他の蟹」で、私1人が「人間」と書いたのだ。ドン引き&失笑のち爆笑という、シュール系芸人のような笑われ方をした。余談だが、大人になった今でもシュール系のお笑いを直視できないのは、あの時の自分を思い出すからである。
 当時の私の思考回路では、正しい答えは「人間の子ども」だった。蟹がいてやまなしがなるような川や森で遊んでいた人間の子どもの笑い声が「カプカプ」で、家に帰ったのか本当に亡くなったのかして、その声が聞こえなくなった。そういう情景かなと思っていたのである。
 で、この件で、自分の考えは大人にも子供にも笑われるようなことなのだと幼心に傷つき、この頃からあまり自分の本当の考えを人に話さなくなった気がする。家庭環境が良くなかったので、もともとアダルトチルドレンの気はあったが、また少し違う点で「自分の考えはどうやら他の子に追い付いていない劣等なもの」だと思い込んで(別にそれも間違ってないけど)しまった。
 当然、宮沢賢治は、小学校の図書館の本ならほぼ全て読破するくらいに本が好きな自分にとっての鬼門になった。嫌な思いが蘇って、読めなかった。
 が、私がその後、国語という教科のテストや全国模試でほぼ毎回満点だったのは、この経験のおかげだ。「自分の考えは間違っている=自分以外の人なら何を正解だと言うか」という解き方で、選択問題も記述問題も、果ては論文試験も、ほぼ満点をもらえた。さすがに古分漢文は文法や語句を多少勉強したが、要点さえ押さえれば、現代文と何も変わらないどころか内容はずっと易しい。
 きちんと宮沢賢治を読むようになったのは、二十代前半。病気で週1回遠方に通院していた時だった。電車の往復三時間を、ずっと本を読んで過ごしていた時期である。
 年月が経ってトラウマが薄れていたことと、病気と薬の影響であまり難しい本や長い小説を読むのは辛いほどぼーっとしていたから、詩や童話、短編小説が多い賢治の文庫本を手に取った。
 その時、私は初めて、あの時笑われた教室のはるか上空で賢治と握手をした。こんなに美しく、切なく、静かに煌めく世界を忌避していたことがもったいなかった。
 それ以来、賢治は私の本棚でいつも存在している。やるせない時、寂しい時、泣きたいのに泣けない時、賢治の言葉に救われている。

冷静ファンタジー

 「銀河鉄道の夜」「注文の多い料理店」「セロ弾きのゴーシュ」……何度も漫画やアニメ、絵本、映画や教材にもなる有名な作品も好きだ。が、私が読んだ回数が多いのは、「よだかの星」「オツベルと象」「雁の童子」。あまりメジャーな方ではないのかもしれない。が、世界観や全体の構成は共通するものがあると思う。
 生きたヒトが行けない未知の世界に迷い込んだり森の動物が主人公だったり、ごく普通にヒトと動物が意思疎通していたり、動物がヒトのように生活して文明を築いていたり。その設定自体は完全にファンタジーで、小さな子ども向きといえばそうである。
 が、そこで描写される登場人物の行動や心情は、生々しいヒトの世界のどろどろとしたそれそのものといえる。サスペンス的愛憎のどろどろとはまた違う、私たちの日常の中にあるちょっとした澱のようなもの。普段は雑音や忙しさに紛れてしまうそれを、かなり鋭利に、正確に描いている。
 ファンタジーだけど、かなり冷静なのだ。確かに現実にはあり得ない設定の世界ではあるが、展開自体はとても現実的。現代でウケるドラマや漫画よりも、淡々と地に足の着いた結末が多い。ご都合主義やハッピーエンドはあまり、というか、ほとんどない気がする。
 そして、他でもない、そこが賢治の作品の儚さや美しさの要点なのである。

切ないは美しい

 「銀河鉄道の夜」のジョバンニが、学校以外の場所でならカムパネルラと打ち解けられる切なさ孤独と悲しみに暮れ、最期まで飛び続けた「よだかの星」のよだかの切なさ。それなりに生きていれば、自分がその切なさを味わったり、自分の大切な人が切なさの当事者になったりするだろう。
 私が挙げた二者は、どちらもいわゆる「社会的弱者」「いじめられっ子」である。それも、彼らを虐げたり助けてくれなかった人たちが極悪人というわけではなく、単に「あまり関わりたくはない」と遠巻きにされる存在。生まれつきの何らかのハンデ(家庭や身体)を負い、本人はいたって真面目でお人好しなのに、周りになんとなく低く扱われる。
 そして、たまたま運よくそう生まれなかっただけなのに少しずつ傲慢になったり我儘になったりして横暴に振舞いだす者たち。賢治の小説では、そういう者が複数登場して潰し合ったり総倒れになる皮肉の効いたものも多い。
 宮沢賢治自身、おそらくどちらの立場ではなかったのだと思われる。冷静に状況を見ているだけの傍観者であり、だからこそ、どちらの味方にもならず、物語のナレーションを担当している。
 だが、賢治は弱いものたちの中に確かな美しさを見出し、それを大切に残したいと思っていたことはよく分かる。「猫の事務所」という小説は、短くてもそれがぎゅっと詰まっているお話ではないだろうか。
 地理や歴史の資料の管理をする「猫の事務所」では、かま猫、三毛猫、とら猫、白猫、事務長の黒猫の五匹が働いている。主人公かま猫は、真面目で優秀な事務員だが、生態の関係でいつも少し薄汚れていた。それをよく思わない他の3匹が妬み、足を引っ張り、とうとう事務長の黒猫に嘘の告げ口をしてかま猫を孤立させる。
 全編通して他の3匹に理不尽に嫉妬されていじめられるかま猫が、ついに黒猫にすら無視され、全員から故意に無視されるのに職場のデスクにいなくてはならないという終盤。唐突に全てを終わらせる獅子が登場し、この事務所を一喝して閉鎖してしまう
 うろたえるしかない4匹と、泣くのをやめて真っすぐに立つかま猫。この、獅子の逆光に静かに立つかま猫の凛とした背中が見えるようだ。虐げられ続けたかま猫は、他の4匹よりもずっと強い存在、心のありようなのである
 賢治の考える美しさは、造形美や希少性ではない。腕力や権力でもない。理不尽な辛さや苦境に、一人で耐え抜いた者だけが持つ静かな芯の強さなのだ。全ての物語において登場人物が孤独なわけではない(家族愛や友情の温かさを描いた作品もたくさんある)が、私が惹かれるのは、こういう美しさと強さを描いた物語だ。
 その結末が、「よだかの星」のようだったり、「オツベルと象」だったりする。家族と疎遠、パートナーもいない、友人はいるが皆それぞれに家庭がある、という私に響く。一人でも、孤独でも、理不尽や不幸に耐え抜けば最期はほんの少し美しく生きられるかもしれないと、小さな希望の光となっている。
 



 


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