#1 不安な歴史学の私

歴史学科で過去の出来事を丹念に学んでいるとき、ある種の不安が払拭できないまま私の隣にいる。今日のこの記事は過去に関する不安の解明を目的とするものだ。

まず、過去一般の最大の特徴は、「その過去は今、ここには存在しない」ということだ。幼稚園生の頃の私は、当時の友人に「先生に一度も叱られたことがない」と自慢していたらしいが、当然それは「今、ここ」のことではあり得ない。絶対に知覚できない、どんなに強く願ってももう二度と体験できないという圧倒的な断絶が、過去を過去たらしめるものである。

しかしながら過去は、幻や蜃気楼のような意味で、「今、ここ」に存在しないわけではない。では、過去は神話のなかのケンタウロスや、憔悴した私たちがオアシスで見る蜃気楼とどういう仕方で区別されるのか。それは、「過去は、ある時点では『今、ここ』であったことがある」ということだ。「過去のある時点では知覚/経験したことがある」という強烈な実在意識が過去を単なる幻や錯覚と区別する。「過去を教訓として今に刻み込む」「個人/集団の将来像を過去に探し求める」など歴史研究の目的はさまざまであるが、先に述べた意味での実在意識が、「今、ここ」に顕現させることを論理的に許さない過去を探究する歴史学のガソリンであるように思えるのだ。

ここまでで、私が歴史研究の現場に携わるときに感じる不安をある程度明らかにできる。それは、「『今、ここ』に引き戻すことが論理的に不可能な過去を、歴史学は『実在意識』のようないわば情緒に訴えることを回避しながら、どのように掬いとることができるのか」という不安である。

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