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腐れ縁だから #青ブラ文学部

 法廷に入ってきた女性検察官の姿を見て、隣に立つ所長の雰囲気が一気に悪くなる。
 所長だけではない。傍聴席に座るみんなの視線が、一斉に彼女に集まるのを感じる。いつもそうだ。彼女が来ると、場内に不思議な緊張感と高揚が、一瞬の風となって吹き抜ける。

 透き通るような白い肌に、耳下で切りそろえられた黒髪が細い顎の輪郭をなぞり、見とれているうちに目尻の切れ上がった瞳に射竦められる。
 細い肢体に漆黒のスーツをまとい、胸には秋霜烈日の検察官バッジが輝く。

 似たような黒いスーツを着ているのに、いつまでもリクルート感が抜けない私とは大違いだ。
 一度裁判所の廊下ですれ違った事があるが、厭味のない高貴な香りがして、あやうくついて行きそうになった。

 かたや私が勤める弁護士事務所の所長、木之下啓介は、オーダーメイドと自慢していたがどうしてこの色を選んだのか不思議な、絶妙に苔っぽい色をしたスーツを身にまとい、香水をつけているところは見たことがない。胸の弁護士バッジは良い感じに年季が入り、見た目だけはなんとか大人――いや、おじさんになっている。
 無駄に上司の顔を見つめたせいで顎下に剃り残しの髭を見つけた私は、そっと目を反らした。昨日も遅くまで接見だったのだ。仕方がない。が、完璧な女神を前にすると少し悲しくなる。

「おい早川、今日は勝つぞ」

 十割被告人に非があるとみられる裁判での勝ちとは、いったいなんだろう。あいまいな返事をしながら、私は上司を横目で見上げる。いつもだったら「弁護は勝ち負けじゃない」と口酸っぱく言うくせに、向かいに彼女が立つと、彼は急に子供みたいになってしまう。






 所長がこの女性検察官――村瀬千早を苦手とする理由を、聞いたことがある。

「腐れ縁だから」

 以前、酒の席でぼそりと教えてくれた。小学校から大学の法学部まで一緒だったらしい。同じ環境でどうしてここまで別の人格が形成されるか、今でも私は理解に苦しむ。
 最初はお互い名前を知っている程度と思っていたのだが、先日の親睦会で親し気に声をかけてくる彼女を見て、信じないわけにはいかなかった。

 あれは裁判官や弁護士、検察官を交えた親睦会でのことだ。因みに、この世界に入るまで、そんな会が存在することすら知らなかった。仲のいい弁護士と検察官……市民感情としては、どうだろう。嫌われたら良くない判決になるのではないかとか、きちんと判断してもらえるかとか、疑ってしまいそうな気がする。
 ともあれ親睦会や歓迎会のお知らせは、まれに来る。所長はめったに出席しないのだが、この時は大学の後輩がいるからと言って、珍しく出席したのだ。事務所の挨拶要因として、私もこの立食パーティーに駆り出された。

「啓介、久しぶり」

 聞き覚えのある声がして振り向くと、シャンパングラスを片手に持った村瀬検察官だった。

「げ。村瀬も来てたのか。転勤はどうした」
「またこっちに配属になったからよろしく」

 法廷では被告人を淡々と詰める冷たい声しか聞かないため、親しみのこもった声音や微笑みを間近で見ると、妙にドキドキしてしまう。
 珍しいものを見て動揺しているのは周囲の人も同じようで、遠巻きにこちらを伺う視線が背中に突き刺さる。

「啓介、大学の同窓会にも来ないから久しぶりな気がするな」
「ああいうのは卒業して何十年も経ってからするもんだろ」
「私たちは法廷で会うからね」
「他の同級生と法廷で会った事なんてないんだが」

 これも、所長の口から「腐れ縁」という言葉が出てくるひとつの要因である。私も大学の同窓生と法廷では会ったことはない。

「いつか私が弁護士になったら、一番寂しいのは啓介と法廷で会えなくなることだな」

 検事から弁護士に転向する人が多いのは事実だが、まさか村瀬検察官がそうとは思わず、私はつい驚いた声を上げてしまった。

「あ、すみません。早川です。木之下所長の事務所で去年からお世話になってます」
「はじめまして。早川さんはどうして弁護士に?」

 思いもよらぬ質問だった。所長はこれ幸いと、鮮やかなビュッフェ台の前へ逃げている。

「えっと……中学生の時に日本国憲法に恋してしまって」
「恋?」

 真実を暴く検察官の前だからだろうか。私はつい本当のことを話してしまっていた。

「あの前文もですけど、全体的に『時空を超えて未来の国民も守るアニキ感』というか……」
 途中で自分でも、あの村瀬さんを前に何を言っているのかと頬が熱くなってきた。
「俺もそう思う。いいよな」

 いつの間にか戻ってきていた所長が、背後でローストビーフをかじりながら頷く。
「村瀬さんはどうして検事に?」
 最初から弁護士の道は選ばなかったのだろうか。

「捕まえたい、犯人がいる」

 彼女の切れ長の目尻に、憎悪が焔となってゆらめいた気がした。
 私が次の質問を重ねる前に、村瀬検察官は他の人に呼ばれてしまった。去り際、彼女は所長に寂しげに笑いかけ、

「また近々、モエカに会いに来てくれ」

 と、言い残していった。なに、その訳アリ感。私は所長の顔を穴のあくほど見つめてみたが、彼は肉と酒を交互に口に運び続け、何も答えてくれなかった。




「質問は以上です」
 法廷に、村瀬検察官の声が玲瓏と響く。
 被告人があまり反省の色を見せてくれなかった為、弁護士側からの被告人質問は、傍聴人には甘く聞こえてしまっただろう。実際、所長の質問が終わった時、後ろの方の席からため息が聞こえた。そこからの、検察官から繰り出される怒涛の「なぜ」「どうして」に、被告人の声はどんどん小さくなり、傍聴人の背筋が自然と伸びていく。

 最後に謝罪の言葉が被告人から漏れると、勝ち負けじゃないけど完敗したな、という気持ちになり、同時に私は彼女に拍手したくなる。
 村瀬千早というひとは、彼女が正義を守っているなら安心だという気持ちに、最後は必ずさせてくれるのだ。



 事務所に帰ってから、私は先輩にさりげなく二人の事を聞いてみた。

「あれ、早川ちゃん知らないんだ」
「有名な話なんですか?」
「まああの村瀬さんだし、当時ネットでも騒がれたような事件だから」

 先輩はあえてそう勤めるように、軽い口調で話した。

「村瀬さんと所長が中学生の時、村瀬さんの家に強盗が入って、まだ捕まってないんだ」
「その時ふたりとも家にいたんですか?」
「いや、村瀬さんの妹だけが家にいたらしい」
 妹と聞いて、モエカという名前を思い出す。
「でも、妹さん命は無事だったんですよね?」
「車椅子生活だけどね」

 私は、まだ事件や悪意に慣れるというほどの経験を積んでいないのだろう。怒りや悲しみですぐに胸が詰まってしまう。

「所長、もしかして本当は検察官なりたかったんでしょうか」
 試験に合格し、採用されないとなれない、狭き門だ。先輩はちょっと首を傾げ、

「昔の村瀬さんは研ぎたての日本刀みたいに怖かったから、彼女が犯人を見つけたら殺しちゃうんじゃないかって思ったんじゃないかな。犯人か、それとも村瀬さんか、どちらかの弁護をするつもりなんじゃない」

 まさか、と笑いかけて口をつぐむ。怒りは熾火となって、消えてはいなかった。


 事務所のデスクに、天秤が置いてある。弁護士のモチーフの一つでもあるそれは、竿から金の鎖で平衡に皿がつるされている。
 腐れ縁は、鎖縁が語源と聞いたことがある。
 私はふたつの皿に、所長と村瀬さんがそれぞれの鎖に縛られているような気がして、その想像に寒気がした。運命を天に任せた縁ではなく、これは鎖を手繰って離さない縁ではないだろうか。犯人に繋がるために、自ら縛られる縁ではないか。

「私、この書類整理終ったら、その事件書類見てみたいんですけど」
「いいよ。あとでデータファイル送るね」
「先輩も一緒に見ます?」
 先輩はわかりやすく、肩をすくめた。

「この事務所で雇われた人間は一度はそのファイルをみて、自分こそその犯人を見つけてやろうって気持ちになるんだよ。でも我々は警察や検察官じゃない。弁護士だ」

 私の意気込みは消沈しなかった。そもそも詳しく知りたくはあったが、どうこうしようという気持ちもなかったのだ。
 先輩も、所長も村瀬さんも、誰も思わなかっただろう。
 まさか私が一年後、犯人につながる手がかりを、見つけてしまうなんて。
 


青ブラ文学部さんの企画に参加させていただきました。

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