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金魚鉢 #シロクマ文芸部

 金魚鉢が置いてある部屋、というコンセプトを考えたのは支配人である。
 ホテルの全体会議でその提案がされたとき、副支配人やマネージャーだけでなく、フロントリーダーやベルボーイまでが、お互いに「誰か止めろ」と目配せしあっていたことを思い出す。

 駅からは近いが、チェーン店ではなく建物も老朽化してきた田舎のホテルだ。これ以上の名案はないと意気込む支配人を、止められる者はいなかった。


「わたし、毎回掃除に入る時ドキドキするの。金魚が浮いてやしないかって」
 客室清掃のミワさんが、ぶるりと肩を震わす。
 俺は苦笑いしながら、
「清掃はお客さんが入った後だから、まだ良いじゃないっすか。お客さんが気づく可能性のほうが高いし」
 掃除を終えた金魚鉢に、ビー玉と水を入れ、最後に真っ赤な金魚を戻す。慣れてくると、表情も読み取れるような気がして、結構可愛らしい。

「その仕事、客室清掃担当じゃなくて本当に良かった」
「そっちに相談したらしいっすけどね。部屋と一緒に掃除してくれないかって。そしたらさすがに別料金って言われて」
「めずらしくうちの社長に感謝だわ」

 人口がさほど多くない地域で暮らしていると、話の登場人物の顔はお互いに大体知っていて、懐具合や腹の底もなんとなく透けて見える。

「支配人がなんで金魚なんて言い出したか、タカ君知ってる?」

 ミワさんが、急にいたずらっぽい顔をする。

「知らないっす」
「夏祭りに金魚屋台だすお父さん、この前亡くなったじゃない? だから今、金魚屋の店主は奥さんなの」
「つまり、彼女が原因ってことか」

 頭を抱える俺に、冷めた視線でミワさんは言い放つ。

「でも美人よ。なんで金魚屋に嫁いでんのかわかんないくらい」

 ミワさんが人を褒めるなんて珍しい。俺は気になって、仕事帰りに金魚屋を覗いてみた。

「おい、タカナシ君じゃないか。どうした? こんなところで」

 普段着のため気づかなかったが、支配人である。俺はあやうく嫌な顔を前面に出すところだったが、なんとか耐えた。

「いや、ちょっと金魚鉢の清掃方法で店の人に聞きたいことがあって」
「なんだ。それなら私が聞いておこう」

 足取り軽く店に入っていく支配人の後ろから、こっそり店内を盗み見ると、金魚のようにひらひらとしたスカートを履いた、色白の女性が儚げに微笑んでいた。美人だ。ミワさんの言う通り、掃き溜めに鶴、ドブに金魚の美しさだった。


 翌日、支配人に呼ばれて事務所に顔を出すと、いやに機嫌が良い。

「タカナシ君。昨日サキさんに相談したら、今度から週一で金魚鉢を見に来てくれるそうだよ」

 なるほどだから嬉しそうなのか、と口には出さないが事務所にいた全員が思った。


 金魚屋の未亡人――サキさんがホテルへ来るようになってから、三カ月程経った日のことだ。お盆も明けて、珍しく忙しかったホテルもようやく落ち着いてきた。

「タカ君、タカ君」

 廊下でミワさんに呼び止められ、強引に清掃用倉庫の中へ連れ込まれる。なんだか顔が青白い。

「どうしたんすか、血相変えて」
「ちょっと、怖い事があったの」

 ミワさんは少し早口に、夏祭りでの出来事を語ってくれた。

 その日、ミワさんは割と早い時間に、小学生の息子を連れて地域の夏祭りに出かけた。金魚屋台が出ているのを見て、毎年金魚掬いをねだる息子は案の定、今年もねだり始めた。お客さんは数人。半分が子供だが、成人男性も数人いる。サキさん目当てだろう。
 大勢に接客するのは、慣れていなかったようだ。ミワさんの息子が一番大きな金魚をすくいあげた時、サキさんは他の子供の相手をしていて、代わりに近くの男性が、彼女に良いところを見せようとしたのだろう、息子の金魚を袋にさっと入れて渡してくれた。

 家に帰って、去年、一昨年と掬った金魚の水槽に一緒に入れてやりながら、ミワさんはあることに気が付いた。なんだかこの金魚、死んだ店長に似ている。
 そう気づいた時、インターホンが鳴った。
 サキさんだ。
 手には別の赤い金魚を携えて、実はその金魚は売り物ではなかった。大きくてきっと誰にも取れないと思っていた。大切な金魚だからどうか別の金魚と交換して欲しいと、頼み込まれた。

「で、どうしたんすか」
「交換したわよ。だってきっと店長だし、気味悪いもの」
「店長ってもとから金魚みたいな顔してたからなあ」
「それでね、思い出したことがあって」

 彼女の話はここからが本題らしい。

「最近、金魚のいる部屋の客、ちゃんとチェックアウトしてる?」

 急に背中に冷水がかけられた気持ちになった。確かに一カ月ほど前、フロント係のユキちゃんが変な事をぼやいていたのだ。「近頃、フロントに鍵だけおいて、チェックアウトの手続きをちゃんとしない客がいる」と。

 早速、休憩中のユキちゃんをつかまえて尋ねると、つい先日も同様のことがあったという。

「真っ白いスーツのお兄さんが泊まりに来て、チェックインの時は翌日のチェックアウト時間を昼まで伸ばせないかって聞いてきたのに、結局10時には鍵だけおいてあって変だったんだよね」

 俺は、ミワさんと顔を見合わせる。

「それ、何号室?」

 清掃が終わった部屋を見ても意味はない――という事はなかった。

「この部屋、白い金魚なんていたっけ?」

 ミワさんが不気味そうに金魚鉢の中を見つめる。

「部屋によって金魚の数は違うし、最近は金魚鉢の清掃してなかったから、覚えてないなあ」
「え、やば。これこの前のお客さんってこと?」

 ユキちゃんは何故かけらけら笑っている。

「俺、この部屋泊まってみようかな」

 二人には止められたが、こっそり泊まることにした。といっても、夜勤の時に専用の仮眠室ではなく金魚鉢の部屋で仮眠するというだけなのだが。


 ベッドメイクをするのが手間なので、備え付けのソファに横になる。夜勤も慣れたもので、俺はどんな場所でも大体寝られる。そして物音がするとすぐに目が覚める体質になっていた。
 この時も、廊下に続くドアが開いた気がして、俺は目を覚ました。
 しかし室内には、誰もいない。
 金魚鉢のほうに目をやると、赤い金魚が月明かりもないのに妙に光って見え、目をこすった。擦りおえた目をもう一度開いた時、目の前にはサキさんがいた。


 金縛りにあったように身体は動かない。金魚と同じ真っ赤なワンピースを着たサキさんがゆっくり近づいて、赤い唇の間から舌をちろりと出してみせる。
 舌先に何かのっている。真珠のようだ。彼女は白い指先で真珠をつまむと、俺の口にそれを押し込めた。砂糖菓子のように甘かったが、臭いは強いハーブのようで、とても飲み込めない。
 俺は必死にそれを吐き出そうと試みたが、彼女はそれをさせまいと俺の唇を掌で押さえた。びっくりするほど、冷たい手だった。

 目を覚ますと、視界はぼんやりとしているが、白く陽の光がさしているようで明るい。しまった。寝過ごした。

「タカ君、タカ君」

 ミワさんの声だ。でも、ミワさんって誰だっけ。
 なにか答えようとして口を開くと、目の前に大きな水泡が出現し、天へ昇って行った。ゆらりと白いものが横切って、それが大きな白い金魚だとわかる。

 白い金魚の目は濁っていない。敷き詰められたビー玉がキラキラ輝いて、なんだかこの世界も悪くないと思えてくる。ひとつ、ふたつ、泡を吐き出すたび、頭がぼんやりしてくる。


 外の世界の事はもうあまり思い出せないけれど、頑張って戻るほどの世界ではない気がする。特に仕事。この言葉は決して思い出してはいけないような……。

〈了〉


シロクマ文芸部さんの企画に参加させていただきました。

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