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母がもうすぐ亡くなるかもしれない

1ヶ月前の5月1日、こんな記事を書いた。

要約すると、4月30日に「閉塞性動脈硬化症」の治療のために入院した。
脚の詰まった血管をどうにかするため、バイパス手術をする目的だった。

母は入院当日もいたって元気で、「ここの病院はご飯がおいしいといいね」「手術したらまたリハビリして早く歩けるようになるといいね」なんて話していた。
しかしその日の検査でとてもバイパス手術ができるような状態ではないことが分かり、脚を切断することになると宣告されたのであった。

母にそのことを伝えるのがつらくてつらくて、すごく重い気持ちで病院に行ったのが5月8日。
感染症対策で面会が基本NGのため、入院の日から1週間も会いに行けなかった。

1週間ぶりに会った母の姿は変わり果てていた。
身体中にチューブが繋がれ、言葉を喋ることもままならず、自分で首も腕も動かすことができない。
あまりの変わりように、3年くらいワープしたかと思った。

たった1週間でなんでこんなことになったのかと病院に尋ねてみると、環境の変化などの影響で高齢者にはよくあることだと言われた。
よくあることなのは知っているが、それにしても急激すぎる。

新たにもらった診断名は「虚血性心疾患」。
脚の動脈硬化どころではない、もう全身がボロボロで、「ここまでひどい患者さんはなかなか見たことがない」とまで言われた。

そして5月13日、カテーテル処置の日。
朝イチで病院に着くと、心不全を起こしているため処置不能と言われた。
心不全によるむくみで腕が2倍くらいに膨れあがっていた。

手術は心不全が治まってからすることになった。
すると、その日の夜に主治医から電話があった。

今からICUに移動する。
心筋症を起こしている。
もしかしたら「心アミロイドーシス」という病気かもしれない。
アントニオ猪木がそれで亡くなった。
その病気かどうかを確定させるには、心臓の細胞を取ってこないといけない。
しかし今はそれをするような全身状態ではない。

そう言った後、主治医はこう続けた。

もしかしたら今夜にでも心臓が止まるかもしれない。
その場合、心臓マッサージはするか?
心臓マッサージをしても戻ってこない可能性が高い。
心臓マッサージをすると肋骨が折れるなど、身体の負担が大きい。
その後もどれだけ生きられるか分からない。

私は心臓マッサージはしなくていいと答えた。
結果として、幸いにも母の心臓は止まることはなかった。

その頃からは、状況が状況なので週に2回程度なら面会OKということになった。
いやいや、毎日でもOKしてくれよ。
というのが本音。

2日後の5月15日に面会に行くと、今度は腕だけでなく顔面も2倍くらいに膨れ上がっていた。
意識も朦朧としていて、可哀想で仕方なかった。
脳のCTを撮ったところ、脳梗塞を起こしているとのことだった。

意識が朦朧としているのは、脳梗塞のせいだろうと。
できる限りの治療はするが、3日以内に脳出血を起こして亡くなる可能性もあると言われた。

生命力が強い母は、3日後の5月18日に面会した時にはだいぶ回復しており、意識もハッキリしてきた。

5月22日に面会した時は、さらに意識がハッキリして普通に会話ができるようになっていた。
CVから栄養を入れている自分の状況がよく分からないようで、「お腹が空いてるのにこの病院はなぜかご飯が出てこない」と言っていた。
そして「いつ脚の手術するんだろう?」としきりに言っていた。

脚の手術をしたらまた歩けるようになる、そういう希望を持ったまま逝かせてあげたかったので、「今ちょっと体調崩してるから、それが良くなってから手術できるよ。もうしばらく掛かると思うけど、焦らずゆっくり体調回復させようね」と伝えた。

脚を見せてもらったが、壊疽がだいぶ進んでいて足首から下が真っ黒だった。
文字通り、真っ黒。
本人はそのことを知らない。

翌日の5月23日にはICUから一般病棟に移り、ゼリー食のリハビリを始めたという連絡が看護師からあった。
緊急状態を脱したため、また面会が基本NGとなった。
それはちょっと……と抵抗し、主治医に面会許可をもらってほしいと伝えた。

連絡が来るのを待つこと1週間(絶対に忘れてた)。
5月29日に主治医から電話があった。

数日前からまた調子が悪くなってきた。
脳梗塞でぼーっとしている。
熱が上がってきたため抗生剤を飲ませている。
炎症反応が上がってきて状態が良くない。
ゼリー食で誤嚥したため、今後はもう経口での食事はできないだろう。
心臓の状態がよくないため、あとは本人の生命力次第。

そのまま電話で「面会できませんか?」と聞いたところ、OKをもらった。

その日のうちに会いに行くと、ガリガリに痩せこけて、髪の毛もだいぶ抜けて、意識が朦朧とした母が寝ていた。
九州から飛んできた自分の姉を見て、自分の母親だと思ったらしく「ばあちゃん!」と言っていた。
スマホで昔の写真をいろいろ見せながら話したが、自分の若い頃の写真を見て「姉ちゃん」と言ったり、私が中学生の頃の写真を見て「それ誰?」って言っていた。
それでもすごく楽しそうに写真を見ていた。

私の最近の写真を見せたら、すごく嬉しそうな笑顔で私の名前を言った。
面会中は私の顔を一瞬も目を逸らさずにジッと見つめ続ける。
私が笑顔を見せると、母もニコッと笑う。

今の自分の状況が全然分からないだろうが、変に意識がハッキリしていた時よりも安心した。
「今は熱が出てるから、まずは熱を下げようね。順調に回復してるから、安心してゆっくり休んでるんだよ」と伝えた。

入院してからちょうど1ヶ月。
脚の手術をするだけのつもりで入院した病院。
手術をしたら、リハビリをしてまた元の生活に戻る予定だった。

繰り返しになるが、入院した日はいたって元気で、「ここの病院はご飯がおいしいといいね」「手術したらまたリハビリして早く歩けるようになるといいね」なんて話していた。

母が自殺未遂をしたのが去年の6月半ば。
ちょうど1年が経つ頃だ。

そこから精神科に約2ヶ月入院し、施設に入った。
長年自分を虐げてきた父とようやく離れることができて、施設で優しい介護士さんたちに囲まれて幸せに過ごした。

不自由な身体で迷惑を掛けても怒られない。
ご飯を作ってくれる。
文句も言わずに優しく介助をしてくれる。
些細なことで怒鳴られたりせず穏やかに過ごせる。
娘は乳がん治療中にも関わらず、定期的に会いにきて美味しいご飯を食べに連れていってくれる。

本当は1年前に失っていたかもしれない命。
延長できた1年間、母はとても幸せに過ごしてきたはずだ。
実際「幸せ」と言っていた。
自分は不幸だ、死にたい、何十年もそう言い続けてきた母が。

私はもっと母にしてあげられることがあったんじゃないかと思うこともある。
だからこれまで母にやってあげたことを書き出してみた。
すると、ものすごくたくさんのことをしてあげてきたことが分かった。
それが可視化されたことで、「大丈夫、お母さんはちゃんと幸せだった」って思えるようになった。

母はもう長くないかもしれない。
つらいこともたくさんあった人生だっただろう。
でも、幸せなことだってたくさんあったはずだ。
最後の1年間は穏やかで幸せな日々を過ごせた。
これは本当に本当に良かったと思う。

脚の手術をしたら、また歩けるようになる。
また施設に戻って、みんなと楽しく過ごせる。
施設長さんも入院の日に「帰ってくる家はここだからね、待ってるよ」って言ってくれた。
他の入居者さんたちも「いつ帰ってくるの?」って施設長さんに何度も聞いてくるらしい。
美味しいものをたくさん食べて、娘にまたいろいろ連れていってもらって、穏やかな日常を過ごそう。

そんな希望を抱いたまま、穏やかな気持ちで旅立ってくれることを願う。

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