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明るい乳がん治療&2023年の振り返り

私は「明るい乳がん治療」をモットーにしている。
あえてそうしたつもりは全くなく、自然とそうなってしまった。

そりゃあ最初は泣きましたさ。
毎日のようにさめざめと。

まずは初めて病院で乳がんの疑いを告げられた日。
夫に打ち明けながらポロポロと涙を流した。

その翌日には友人に電話しながらウワッと泣いた。

病理検査の結果が出るまでの2週間、夫に気持ちを話すたび泣いた。
神経質になっていて、ちょっとしたことでも感情的になってしまって夫に八つ当たりもした。

病理検査の結果が出て、兄の奥さん(義姉)に電話で伝えた時、励ましの言葉が胸に響いてグスグスと泣いた。

施設にいる母親に面会に行って打ち明けた時、母の手を握りながらポタポタと涙をとめどなく流した。

治療方針が固まるとだいぶスッキリして、手術をする頃にはすっかり覚悟を決めたつもりだった。
だけどいざ手術台に上がると涙が溢れてきて、オェッオェッと泣く私の手を主治医が握って慰めてくれた。

そして麻酔から目が覚め、すでに右胸を失ったことを悟ると突然吹っ切れた。
もうこうなっちゃったもんはしょうがない。
なんだったら傷跡、ブラックジャックみたいでかっこいいじゃん。
闘ってきた勇者みたいだし個性的。
右胸がないのが今の私のありのままの姿で、そのままでいてこそ美しいとまで思うようになった。

手術台の上での涙を最後に、私は一度も泣いていない。

そして抗がん剤治療がスタート。
髪の毛はすっかりハゲた。
と言ってもツルツルではなく、少しだけまだらに残ってて逆にハゲ感が強い。

だけどハゲてても私は十分可愛い。
いや、一般的な美意識から見たら可愛くはないのだが、私的には可愛いのだ。

すっかりと吹っ切れた私は、家族や友人との会話でも、主治医との診察でも、化学療法室での看護師たちとの会話でもめちゃくちゃ明るい。

そんな私に対し、周りの人たちもみんな明るく対応してくれる。
私の言葉にたくさん笑ってくれる。

私にとっては、可哀想って思われるほうがつらい。
だから、私のバカ話に笑ってくれる周りの人たちの反応が本当にありがたい。

例えば私の夫。
まずは左胸だけをチラッと見せると「おっぱいがある!」と言い、次に右胸だけをチラッと見せると「おっぱいがない!」と乗っかってくれる。

人によってはこのネタを不謹慎に思うかもしれないが、私にとっては嬉しい反応だ。
おっぱいがないことをネタにするぐらいが私たちはハッピーなのだ。
私は普段から夫に生えてる変な体毛を引っ張って遊んだり、夫のぽっこりお腹のおへそ周りを両手で囲って「ベーグル」とか言ったりしているので、その一環みたいなものだ。

そして母。
前にも書いたが、電話で髪の毛がなくなったことを伝えると「でも可愛いでしょ?」と言ってくれた。
「あなたは頭の形がいいから絶対に似合うはず。見たいなぁ」とまで言ってくれて、そのポジティブな受け止め方がめっちゃ嬉しかった。

そし友人には「あなたを見てると、もし自分がガンになっても大丈夫だって思える」と言われた。
これは私にとって非常に嬉しい言葉だったので、主治医にも報告した。

鍼の先生にLINEで報告したら、「お胸入れたかったら良い外科医紹介するよー」と言われ、「片胸なのも個性的で気に入ってる」と伝えたところ「それは良かった!肩こりしないしね!」と、いかにも鍼の先生らしい返事が来た。
この軽い返しが何とも嬉しい。

兄はもう全然ダメ。
何言っても辛そう。
こっちは笑いを取りにいってるのに、辛そうな反応ばかり。
心配してくれるのはありがたいけど、重く受け止められると辛いのよー。

反対に兄の奥さん(義姉)は最高。
電話で話してる時、抗がん剤の副作用で食欲が落ちてないか心配してきたので「さっき1人でしゃぶしゃぶ食べ放題に行って、たらふく食べてきた」と告げると大爆笑。

そして実は今月の頭に夫が交通事故に遭い、足首を骨折した。
会社帰りにタクシーに轢かれたのだ。
災難ではあったが、頭を打ったわけでもなく、背中や腰なども打たず、足首の骨折と膝の靭帯損傷だけで済んだので不幸中の幸いとも言える。
すでに手術を終えて退院し、車椅子生活から松葉杖生活に移行し、順調に回復している。

事故の翌日、夫の診察に付き添った。
診察は午前中だけでは終わらず午後に差し掛かったのだが、病院が昼休憩に入るため1時間半ほど待つことになる。

骨折箇所を高く上げてないといけないため、夫は処置室のベッドで寝てるように言われた。
その際、「実は私も抗がん剤治療中で」と伝えてみると「あら大変」ということで私もベッドに寝るように言われた。

そして2人仲良く病院のベッドに並んで寝ることに。
なんだこのシチュエーション!と2人で大笑いし、私はそのまま気持ちよく爆睡。
枕が変わると眠れないタイプの夫は一睡もできず、午後の診察が始まる際、私は夫に叩き起こされた。
夫の診察に来てるのに、本人の横で大爆睡する妻。

その話をすると、義姉は電話越しに大爆笑をしてくれた。
ちなみに義姉も子宮がんに罹ったことがあるため、辛い気持ちも理解してくれている。

一番強烈なのは叔母。
最近あった別件でのストレスについて電話で話している時、「ストレスで髪の毛が抜けないから良かったね」と言われ、「うん、すでに無いからね」と答えて2人で爆笑した。
これもまた人によっては不謹慎だと思うので、良い子は絶対に真似しちゃダメですよってやつだが、私と叔母の関係ではこれくらいがいいのだ。

極め付けは主治医だ。
ジーラスタの副作用で身体中が痛い中、夫の車椅子を押している姿がまるで老老介護だったという話をしたら、ツボったようだ。
お腹と口を押さえて必死に笑いをこらえている。

「笑うところじゃないけど」と言うので、「いや、笑ってください」と答えた。
笑いを取りにいってるので、笑ってくれないと逆に悲しい。

診察の最後には「元気をもらいました」とまで言われた。
主治医にそんなこと言われるなんて本望である。

以上、私の「明るい乳がん治療」に笑ってくれるありがたい人たちの紹介であった。

さて。
私の2023年。

3月に夫の希少がんが発覚した。
これが今年一番辛かった瞬間だ。
精密検査の結果、幸いにも「中間型悪性」といって局所再発しかしないやつだった。
4月に手術で切除し、あとは再発してないか3ヶ月ごとにMRIを撮る。
もし再発したらまた切除する。

そして6月頭。
半年ほど耐えた上司のパワハラについに心が折れ、適応障害の診断を受けた。
ベッドから起き上がることもできなくなり、希死念慮も強くなる。
結果、弁護士に依頼して退職手続きを取った。

6月末。
右胸にしこりを発見。
ズドーンというショックが自分の中で起こったが、病院を受診したのはそれから3週間ほどあと。

同じく6月末。
母親が自殺未遂をした。
救急車で運ばれて一命をとりとめたものの、しばらく精神科に入院することになった。
原因は脳梗塞による身体の不自由と、夫(私の父)による長年のモラハラ。
私も適応障害で寝込んでる場合ではなくなり、母のケアに徹する。

7月半ば。
乳腺外科を受診し、乳がんの疑いが出る。
次々に襲いかかる災難に、心が折れるどころか無になっていく。
涙を流す日々ではあるものの、感情は薄くなっていく。
そして母はもう実家には戻せないと医師に言われ、入所できる施設を探す日々。

8月。
乳がんの確定診断が下る。
薄くなっていた感情に火がつき、病気に打ち勝つためにはどうすべきか、乳がんについて猛勉強をスタート。
母の施設入所手続きも完了。

9月。
乳がんの手術。
人生初めての入院生活は割と快適だった。
一方、母の施設が通報レベルのひどさだった。
見学の時に施設長が言ってたことは嘘ばかり。
母の健康状態が一気に悪化したため、わずか1ヶ月で別の施設に移る。

10月。
母自身は少ない障害者年金で生活する身。
私は無職だし、父はモラハラで母の自殺未遂の原因だから頼れないし、兄も子育て中だし、誰も母の施設代は支払えないので、生活保護を申請。
事情が事情なのですぐに受理された。
母は新しい施設で幸せに生活している。
子供の頃から両親の不仲にずっと苦しんできたが、その苦しみからようやく解放された。

11月。
抗がん剤治療スタート。

12月頭。
夫が会社帰りにタクシーに轢かれて骨折。
一報を受けた時は、3月に希少がんの報告を受けた時ぐらいキツかった。
夫に何かあると自分のことよりも辛く感じるから、そういう意味では夫も私の病気のことを考えると辛いのだろうな。
夫は4月に人生初めての入院と手術をしたばかりだったが、なんと年内に2回目の入院と手術をすることに。
そして我々夫婦は、何十年も先がけて老老介護生活を体験する。

12月31日。
「なんて1年だったんだろう」と思いながらこれを書いている。
こんなにひどかった2023年が間もなく終わることが楽しみでしょうがない。
占いによると、2023年で試練が終わって2024年は上向きらしい。
そんなの100%信じちゃう!!

ただ、散々な2023年ではあったけど、毎回命にかかわる出来事に遭いながらも最悪の事態は逃れている。
母も一命をとりとめたし、夫の希少がんも事故も重くならずに済んだし、私もがんばって闘病中だ。
命が守られた2人にあやかり、私も体内の微小転移が消滅したと信じたい。

ああ、もう24時間切っている。
早く2024年になってくれー!!

そして皆さんも素敵な2024年を過ごされますように!!

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