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あの頃の邪道&外道'88&'93①

現在邪道、外道を名乗る秋吉さんと高山さんの2人と最初に出会ったのは、88年の春から夏あたりのことだった。当時ボクは大学でプロレス研究会に所属し、学生プロレスをやっていた。
うちの大学を含む16大学のプロ研が加盟していた関東学生プロレス連盟は、その前年に本物のリングを購入。大田区西馬込にあるプロレスショップ・マニアックスの地下に置かせてもらい、そこを練習場として使わせてもらっていた。ここでは二人の名称を邪道さん、外道さんに統一して筆を進めていきたいと思います。

邪道さん外道さんにスペル・デルフィン選手を加えた3人は、ラジオ番組「ビートたけしのオールナイトニッポン」で企画された、たけしプロレス軍団(TPG)の練習生になったものの、87年12月27日、有名な新日本プロレス両国暴動のあおりを受け、企画は消滅してしまった。行き場がなくなっていた彼らのために、マニアックスの店主でありゴング誌記者のウォリー山口さんは、彼らにも練習場所としてリングを開放したため、そこで彼らと顔を合わせるようになったのだ。

基本的には学生とTPGが、練習や試合でからむことはない。ボクたち学生と、ウォリーさんの共催で行われた洗足池の体育館での大会に、二度ほどTPG の試合が提供されたことがあるぐらいだ。
また名古屋のアマチュアプロレス団体に呼ばれ、リングを積んだトラックと数台の車に分乗して、学生とTPGで一緒に遠征したこともあった。
試合はここでも別々で、TPGは邪道さん、外道さんとスペル・デルフィン選手(当時は3人とも本名)に、他の一名を加えた4人でタッグマッチ一試合を提供した。

ちなみにこの時の名古屋のアマチュア団体の代表は、現在のウルトラマン・ロビンで、学生プロレス側からは、現MEN‘Sテイオーとして活躍する大塚さんも出場している。
TPGとボクを含めて6名がその後プロレスラーとしてデビューし、ウォリーさんも悪役マネージャーとして参加したこの大会は、今となってはコアなマニアが飛びつきそうな話題だが、いかんせん観客が100人もいなかったため、誰にも知られず現在も語り継がれることがないのだ。まだ日本の男子団体が新日本、全日本、UWFしか存在しなかった時代で、ロビン選手とTPGの3人が翌年格闘技の祭典で大仁田厚のセコンドにつくことを考えると、これはインディー団体誕生の前夜祭的な大会だったのかもしれない。現在各団体で裏方を務める二グロさんもこの場にいたことは、だいぶ後になってから聞かされた。

試合終了後、ほかの学プロメンバーは、現地に住むOB宅で一泊することになったが、ぼくはマニアックスへのリング搬入と組み立て指示のため、邪道さんの運転する車でそのまま帰京することになった。
明け方東京に着いたぼくたちがマニアックスでトラックを待っていると、電話が鳴った。早朝にもかかわらず電話をしてきたのは、トラックに乗った外道さんだった。

「手持ちのお金がなくて高速代を払えないから、山口さんに言って持ってきてもらえませんか?」

事前にウォリーさんが高速代を外道さんたちに渡し忘れていたため、再び邪道さんとぼくは車に乗って、高速の料金所で待機するトラックまでお金を届けた。この時初めて高速に入らず、入口でUターンして引き返すことができることを知った。

マニアックスで練習を続ける3人は、どこかの団体の入門テストを受ける様子もなく、一体何のためにここで練習を続けているのか、ぼくたち学生には理解できなかった。
彼らは翌年から日本マットにインディペンデント団体が乱立することを予期していたのかもしれないが、そんな時代が来ることはボクたち素人には、まだ想像もできなかったからだ。
翌89年の春、何かの用事でマニアックスに行くと、ウォリーさんに呼びかけられた。

「おう、明日時間あるか?成田まで運転してくれ。」

翌日からウォリーさんとTPGの3人は、ジェラルド・ゴルドーの主催する大会に呼ばれ、オランダに旅立つことになっていた。荷物が多いので、ウォリーさんの車に積んで成田空港に行くから、そのあと車を自宅まで届けるよう頼まれたのだ。翌日ウォリーさん宅から車でリムジンバスが発着するホテルまで行くと、ロビーには念願のプロデビュー戦を控え、晴れやかな表情の3人が待っていた。しかしそれを打ち消すかのように、ウォリーさんは邪道さんに命令した。

「お前、成田まで運転しろ。」

ウォリーさんはぼくがペーパードライバーであることに不安を感じ、運転を邪道さんに交代させ外道さん、デルフィンさんらと一緒にバスに乗り込んでいった。

「まいったな。」

リムジンバスでゆっくり成田まで行けるはずが、運転するはめになった邪道さんは、ぼくを乗せた車でぼやきながらバスの背後について成田まで向かった。

余談だが、マニアックスに戻り、ウォリーさんのお母さんに鍵を届けると、「さっき渡辺さんってレスラーの人が来たんだけど知ってる?外人の人と一緒に。」と尋ねられた。

この渡辺さんとはのちのセッド・ジニアスで、一緒にいた外人とはおそらく新日本に来日していたマーク・フレミングのことだろう。
ルーテーズ道場での修業を経て日本に帰国していたジニアス選手が、アメリカで一緒に練習をし、この時新日本に来日していたフレミングとウォリーさんのもとに訪れていた。
やがて来る日本マット団体乱立期に向け、時代はすでに動いていたのだ。

このオランダ遠征でプロレスラーとしてデビューを果たしたTPGの3人の周囲は、ここから徐々に慌ただしくなる。ウォリーさんの自宅の別棟にあったプロレスショップ・マニアックスは閉店し、旗揚げを控えたFMWの事務所になった。それと入れ替わるように、ぼくたち学生は衝突をさけるため、マニアックスから去ることになった。

つづく

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