韓国文芸室 はじまり
最終更新(2024.5.10)
このnoteについて
書き手
ハシビロコウ
地の文
ハシビロコウの初稿をもとに、ペンギンが加わって議論をしたものが土台となっている。韓国文芸室について。
引用 ①
ハシビロコウとペンギンの対話の中で、地の文から浮き出てきたもの。もしくは対話の中で浮き上がってきたもの。
引用 ②
note公開後(2024/5/4)、ウーパールーパー(メキシコサラマンダー)による断片の形式をとった問い合わせ。そしてそれへ応じる形でのハシビロコウとウーパールーパーとの対話。
韓国文芸室はじまり
『すべての、白いものたちの』 ハン・ガン 斎藤真理子 = 訳
この作品を読み、好評だったため、韓国文学を集中的に読んでみようということに。
この作品についての記事を後日投稿予定ですo(・x・)/
韓国文学への問い
『韓国文学の中心にあるもの』 斎藤真理子
初回ということで、まずは前提知識と確認しよう!次回以降読みたい本について目星をつけよう!と 斎藤真理子さんの『韓国文学の中心にあるもの』を読むことになりました。
この本では、文学史に残る現代の事件やトピックがそれらを扱った作品とともに紹介されています。そして、著者は次のようにして韓国文学について振り返ります。
一つ目の問い:ある出来事について書く、テクストについて語る
現代の韓国文学が拠って立つ歴史を知る。そうして作品を読む。テクストの中の声を聞き取ろうとすると、どうしてもそこで、歴史もしくは「文学が成立する条件」としての歴史というようなものを意識せざるを得ないような気がしてしまいます。どのようにして成立しているのだろうかということと同時に、それ以上に、成立の条件というようなテクスト外の事柄をどうしても参照してしまうという意味で。
韓国の民主化にまつわる幾つもの事件を知り、それらを取り上げている小説を読むとき、そのテクストの中で起こっている出来事が実際の事件に基づいていることを知っている私たちは、ごく自然なリアクションとして、テクスト中での暴動の描写、悲劇の姿をほんとうにあったことなのだとして受け取ってしまうのではないか。逆に、これは誇張されているのだろうと考える余裕もないほどに、作品の文体が私たちに事件の光景を見せてくるようにも思うのです。テクストを読んでいると、いつの間にかテクストの外の出来事へと弾き出されるように、考えが誘導されてしまう気がしています。
ある出来事について、ある出来事によって存在が蔑ろにされてしまった人々について、声をあげないとなかったことにされてしまう、そこにいないことになってしまいような人々のことを、ある種の証言という形にして描くような文学が存在していること。そのことについては大きく頷ける一方で、そうしたテクストについて語ろうとすると、いつの間にかテクストを解消して、事件そのものについて焦点が移ってしまうことを考えています。(作者の死という言葉を知っていてもなお)
韓国文学を(そして韓国文学をあらゆる文学作品の見立てとして)どのように読むことができるのか。歴史と物語が不可分である一方で、テクストの次元にこだわってテクストを読むようなスタンスもあり得るでしょう。その中で現状、社会性や歴史性を参照することが、半ば強制されるようなスタンスしか見つけることができていないと考えています。
一言で。韓国の歴史、韓国文学の歴史を知った上で、いかにして韓国文学を読み、言葉にすることができるかということ。
二つ目の問い:当事者
また別の観点として、次のことを考えたいです。ある事件を扱った作品について、その作品を書いている作家たちは、まだ事件当時は子どもであったり、事件については朧げにしか記憶していない場合もあります。当時の出来事を周囲に聞かされて育ったという作家がいてもおかしくありません。
何が言いたいかというと、当事者であること、そうでないことというふうな区切り方がもしあったとするときに、事件当日その場にいいた人からテクストを書いた人、そしていまの時代に日本に住んでいる読者である私たちという輪の中で、どのくらい大事な問題になっていて、それをどんなふうに受け取っていたらいいのだろうかということです。最近、「作者は自分よりももっと凄惨な体験をしているのだからと、出来事の一番の中心にいる人を自分と切り離すように書くのではなくて、むしろ含み込むようにして書くんだ。」という話を耳にして、何かヒントにならないだろうかと考えているところです。
個人的には、こんなことを仮定としてこれから当事者について考えてみたいと思っています。ある出来事以降に、私たちが生きている。そんな私たちの中に語り手がいて読み手がいて、ある出来事をそれ以降に生きる人間としてそれぞれが等しく分かち持つ存在であるというふうに。まだ仮定であり、これから更新していけたら。
三つ目の問い:韓国文学をなぜ読むのか
例えば『82年生まれ、キム・ジヨン』は韓国だけでなく日本でもベストセラーとなりました。『韓国文学の中心にあるもの』では、日本でもベストセラーとなった理由を詳細に紐解いており、韓国のフェミニズム文学の火付け役になったという話がなされています。(p.44)
しかし韓国文学はフェミニズム文学だけではありません。そのことはこの本を通して十分に語られてきており、多くの韓国文学が日本でも読まれています。そうした今の韓国文学ブームとも言っていいような状況に対して、『韓国文学の中心にあるもの』では、その終章において次のように語られています。
ここへの答えとして、具体的な作家や作品を引用しながら斎藤真理子さんはエンパワメント、修復力、生命力という言葉を用意しています。より詳細な内容については本書を参照されたいですが、ここではこの韓国文芸室を通して、借り物の言葉ではなく、自分たちの答えを見つけたいのだということを記しておきたいと思います。
今現在の私には、ごく抽象的な言葉として、「個別具体的な出来事を扱っているのに、だからこそ、物語を通してそれを普遍的なものとして、違う国で生まれ育った人でも、それらに共感し、自分たちのこととして作品を読めてしまう」というふうな、そもそも「物語」ってそうでしょうと言われても仕方のないスタンスしか取れていないように思います。歴史や事件に関係していなくともすべての作品に対して可能なゆるいスタンスになっているのでしょう。
それよりも踏み込んだ形で、もしくはより軽やかに、どうして韓国文学を読むのだろうかについて、応えることができたらなと思います。
その他いくつかの問い
上記のもの以外にもいくつか問いが挙がったので、箇条書き形式で紹介。
次回の課題図書:『外は夏』
さて次回の韓国文芸室では『外は夏』キム・エラン 古川綾子 = 訳 を読みます。たのしみ。
あらすじです。
他にも、『こびとが打ち上げた小さなボール』が気になるという話も出ていました。
今後の気になるトピック
『現代韓国詩選』
『韓国文学の中心にあるもの』でも触れられていたこととして、韓国では日本よりも詩が多く読まれているということがあるそうです。ハン・ガンの詩集『引き出しに夕方をしまっておいた』の後書きでは、訳者の斎藤真理子さんときむ ふなさんとのやり取りの中で、茨木のり子さんによる『現代韓国詩選』が紹介されている。最近新版が出ているそうで、これも気になります。
韓国ドラマ
韓国文学は読まないけれど、韓ドラはめっちゃ観る!という人は多いのではないでしょうか?
文芸室のメンバーに紹介してもらったものを載せておきます。(次回の読書会までに見ておきたいなと思っています。)
おわりに
次回、『外は夏』を読んで、今回の問いについて再考しようと思います。
ほんとうにわからないことだらけですが、現時点でわかっていないことを「韓国文芸室 はじまり」としてここに記録しておくことにしました。
まだ具体的なテクストを参照しての議論は始まっていないのです、、!!
これから文芸室のメンバーと一緒になって、いくつかのテクストを読んでいきたいと思います。
ほんとうにこれからなのだと思います。
それではまた〜
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?