『菅原道真』読了
「白紙(894)に戻そう遣唐使」は、実は894年に白紙に戻って(中止されて)はなかったらしい。
中公新書。あとがきにて、一般書を執筆する難しさが語られているが、確かに予備知識無しでのほほんと読むには手強いかも。そうじゃなくて、玉石混淆の新書のラインナップ中でも屈指の「ホンモノ」として評価したい。記述中に出典の論文名が記され、もちろん末尾には150以上の書名・論文名が参考文献として列挙されている。文体は決してフレンドリーとは言えず、読者への媚は皆無であるが、その分論旨明快で安心感がある。これが、修士論文の「副産物」であると言われるのだから、なんだかもう…自分の不勉強ぶりに消えたくなってしまう。
冒頭に挙げた遣唐使の話しかり、時平との対立しかり、それらの俗説が最新の研究では新知見が呈されていると知った。道真の漢詩が簡潔な訳と共に引用されていて、「あ、いいな」と興味が湧いたのも収穫だった。でも個人的に大きかったのは、「詩人無用論」について知れたこと。
うん、1000年前から変わらんなー。
不要不急な虚学は無意味、と。淋しいね。
本書を読みながら、貫之が漢詩を残してない理由について考えを巡らしていた。こんだけ「詩人無用」と誹謗されて、しかもそれが和製白居易・学問の神様たる道真にも向けられるのだから、漢詩に見限りを付ける気持ちも分かる気がする。と同時に、貫之たち古今撰者の面々が和歌に振り切った時点で、「無用」の世界に閉じ込められる運命でもあったということ。一時的にチヤホヤされても、政界での出世は叶わないし、一発屋で終わって、その後和歌は流行らなくなるかも。そういう危機感が、晩年「若貫之逝去、歌亦散逸(もし貫之が逝去したら、和歌はまた散逸してしまうだろう)」(新撰和歌序)という言葉になっちゃうのかもなあ(実際には勅撰集は後代も編纂され続けるのだけれども、彼の関かり知るところではないし)。うーん、つらみ😢
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