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「勝負」が生む不思議な不協和。

今日、不思議な体験をした。
自分が今まで口にすることのないような言葉が口を飛び出していた。

「くそが。」(人に対して)

自然に、ごくごく自然にその言葉が自分のなかを通り抜けていった。
でも、一瞬の心地良さが通り過ぎた後、違和感だけが僕の中に残った。

今日は、その違和感を言語化したいと思う。

我慢することと、器は違う

僕は、今ポーランドで、選手としてだけでなく、通訳などの仕事もしている。
だから、チームメイトの日本人とポーランド人の間に入って通訳することが多い。

通訳は、完全に理解できないものもその文脈を組み取らないといけないといけないから簡単ではない。でも、軽率な発言を通訳してと頼まれる時はそれ以上に葛藤する。

でも、その感情が芽生えたときは、それを押し殺して話していることをまずは伝えることをこれまで心がけていた。

でも、、、

今日そのチームメイトのあまりに身勝手な発言を僕は受けつけることができなかった。

「自分がやりたいから」その一点で説明されるその言葉を、英語に変換するだけの気持ちには到底ならなかった。

だから、僕は「ノー」といった。

断るということ

何かを断つこと。それは勇気のいること。
でも、僕はそれを勘違いしている気がした。
だから、ノーとは言ったものの、そのあとしっかりと彼の言葉は僕が伝えた。

「ごめんなさい、伝えました。」

そう伝えても返事は来ない。

時間が空いて、
「もうモチベーションなくなったわ」

と言ってきた。

彼は、僕の5つ上。
いい加減にしてほしかった。


不協和は重なる

今日の試合はシーソーゲーム。
白熱した試合展開だった。

でも、僕は出場していない。
なぜなら、ヨーロッパには外国人の人数制限があるからだ。
葛藤はないことはない。

でも、この展開の試合をものにしたいという想いが強い。

そして一点差で負けている最終回、その時はやってきた。

ランナー三塁には彼。
そして、セーフティースクイズのサイン。

サインが出て、彼の動きを見る、
とその瞬間に相手から「スクイズスクイズ!!」と掛け声が入り、
ホームで相手のプレーでアウトに。

そして思わず、その言葉が口をすり抜けていった。

「敵チームにサインを言ってんじゃねえよクソが。」

試合中、明らかに彼は敵チームの日本人選手との会話を楽しんでいた。
そして、そのプレーの直前にも三塁上にいる日本人選手と会話をしているのが見えた。

大きなチャンスを逃した悔しさと、その景色がすべて同時にフラッシュバックし、自分の口からその言葉がすり抜けていった。

そして試合後

彼が敵チームの三塁手に
「あの時がサインを確認するために言っちゃったかなって」

と話しているのが通りかかった際に聞こえてきた。

そして、数分後、

彼は僕の胸倉をつかんで怒鳴ってきた。
「俺はサインなんか言っていねえ、敵チームの三塁手にも聞いてみろよクソが!!」

すかさず他の日本人が間に入ってきて止めてくれた。

それで、事はやんだ。

だけど、このエピソードが僕自身の軽率な発言の重みを教えてくれるエピソードになった。
と言うわけだ。

時間がたって思うこと。

僕の発言が軽率だったということは言うまでもない。
これは、、反省するしかない。

でも、問題は「なぜ言ってしまったのか?」ということだ。

僕の中で、その理由は2つある。

1.彼へのいら立ち
2.勝利への固執

もちろん、僕が彼のことを嫌いなわけではない。
しかし、この日あった会話などから、少しのいら立ちがあったということは事実だと思う。何より様々ないら立ちや違和感が貯まっていた。

そして何より、「勝ちたい」という想いがなければ、その発言は出てこなかったと思う。

勝ちたいという想いとは裏腹に、ミスが起きてしまった。
だから、衝動的に軽率な発言が出てしまった。

もし、これが成功していたら、
もし、これがどうだって良い試合だったら、

間違いなくこの発言は出てこなかったと思う。

僕にできること

出てしまった発言は仕方がない。
しかし、それ以上にそのあとに何をするかが重要だと思う

だから、僕は彼に謝罪をまずはしたい。
しかし、彼は応じなかった。もしくは寝ているのかもしれない。。

なので、これは後日にしたいと思う。

そして、もう一つ。
今日はとても良い学びがあった。

それは、「固執をすることが生む弊害」を改めて学ばせてもらえたということだ。

「勝ちたい」と思うからこそ、そこへの固執が当然生まれる。

しかし、固執とは違った方向へ物事が進んでしまったとき、
それは多くの場合他人へのいら立ちとなってしまいがちだ。

今回もまさにそう。

だから、「勝つことに固執している組織」*ほとんどの場合がこれ
が負けたときなどは、様々な「ネガティブな会話」が生まれる。

人間関係がギクシャクしたりもする。

逆に言えば、手放すことができたとき、
それはそれで、そういうシナリオだったのか。

と楽しめたのだと思う。

必然とこれから

以上の考察から、僕は改めて手放すことの偉大さを学んだ。
今の資本主義社会は、「勝」ことを正義とする風潮がある。

しかし、本当の豊かさは今あることに目を向けることであり、
野球をできること、それ自体が奇跡でしかないはずだ。

でも、正直この価値観は現代資本主義社会の中では通用しずらい。
しかし、「自分ができる最高のプレーをする」
その結果、勝利につながるといいな。

という発想では同じ方向へ進む。

だからこそ、結果への固執と手放し。

この二つの「固執」と「手放し」の行き来をこれからの残された試合では楽しんでいきたい。

そして、その結果、みんなで最高の喜びを分かち合うことができたらなと思う。


毎回、学びだらけ。

反省し、改善し、学んでいく。
今の僕にできることは、これだけなんだと思う。






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