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心に御守りを

いつか自分の思いを表現できる人間になりたい
たった一人の人間として「尊厳」と呼べるものを手にしたい

そういった気持ちは明確にある。
こういった願望は欲なのだろうか。

欲というと私にとっては「所有欲」や「独占欲」といった言葉のイメージが強い。
穢れとは言わずとも、「他者を変化させるもの」であったり「自分を意図せず変化させるもの」であれば、叶えたところで虚しさが付き纏うのではないだろうか。本意では自分が何を手にしたいのか理解していない人ほど、「自分を満たす何かがある筈」と欲望を追い続けるのではないだろうか。
そんな欲とは異なり、自分の心に耳をすませば聞こえてくる「望み」や「祈り」、これらは自分の御守りとも呼べる。自分を一人の人間として受け入れるためには、この御守りが必要だと私は思う。

自分の心に何か「欠け」があると思っているのなら、自分の心の底を覗いてみると良い。
それを恐れてしまう人間がいるそうだが、私は反対に自分の心の姿や状態を知らないことが怖い。まぁ個人的な話は程々にして、皆んな元々は丸い心で生まれてきた筈だと私は言いたい。「疎ましい」だけで成り立つ心など本来は無いもので、自分の孤独の源である「悲しみ」「寂しさ」「憂い」「憎しみ」「嫉妬」という大事なセンサーを無視して塞いでしまったが故の「機械的人生」を背負うことによる「精神崩壊」、それを止められなかったことで自分を失うほうが楽だと思い込む方へ流れてゆく。
実際ポジティブであろうがネガティブであろうが、そういった傾向は対人関係や自己形成によって作られただけなのだから良い悪いで語ることが出来るわけがない。ネガティブであろうと健康的に生きていける術が個々にあり、無理にポジティブになろう・考え方を変えようとしない方がいい。
元々は皆んな丸い心だったけれど、丸いままでいるのは難しいよね。という感覚で生きていけることが、「自分にも他者にも優しくある」ということだと思う。自分に足りないものを素直に求める心がないと、「ここまで行けたから充分だなぁ」という感覚を覚えることが出来ない。努力のしようがない。そうなると他者が得ているものを自分がそれを得ていないことばかりに気が散ってしまう。自分が排斥したいと思わない「欠け」まで否定してしまう事になる。皆んな同じように、そんな不幸を被るのはご勘弁といったところだろう。


自分を深めるものとして「望み」や「祈り」があるとして、それが陶酔になってしまうといけないのである。自己陶酔の毒に浸ってしまうと、自分と他者の境界線が見えなくなる。同じものとして見るというより、「万人に一貫してこうあるべきだ」・「この考え方が最善なのだ」というふうに思ってしまう。個々を見つめる能力に欠けてしまうというわけだ。自ずと「自分はこういった考えの元でこう生きるんだ」と決めてしまうことにも繋がり、自分の「欠け」を必要以上に否定して生活に気力が湧かなくなって個々としての自分を大切に出来なくなる。
自分はどんな心の状態だと安らぐ?一人でいる時間と他者と関わる時間の最良なバランスは?自分の「快」に素直になって他者との違いを認めることで、自分なりの理想を見つけることに一歩近づく。
最善の理想というものは誰にでも共通して言ってしまえることだが、自分の心から生まれる理想というものは唯一無二である。

自分はこういう人間でありたい。

という感情に毒はない。人間であることは変えようがない事実であり、一人の人間として尊厳を得たいと思うのも自然なことである。そんな自分を微笑と共に受け入れて、自分なりに生きてみようという話である。何かを崇高して自分を改めようと思うのは自由だが、落とし穴を見破らなければならない。今美しいと思うものは自分が抱える苦しみから逃げる術として確保した世界なのかもしれない。幸せだと感じられる自分を失ってはいないか。そう自分に問い続けることが心の健康に繋がり、自分を大切に思ってくれる人に誠実でいられるために必要なことだ。


「今あるものに目を向ける」

確かにとても大切なことだ。しかし自分の望みなどいつか塵にもならないのだから、自分の感じるままに周囲を見ているほうが良い。自分の価値観や感覚を忘れるくらいなら、今ここにあって欲しいものを見つけるまで頑張ればいい。苦しみを超える確かなものを求めていい。欲張っていい。あなたにはあなたらしく生きる人権があるのだから。「こう考えなければならない」なんて縛りはいらない。自分が苦しいと感じる考え方は何故その人にとって良いのか、考えてみるのも学びの一つだろう。その学びにより、自分にはどういった考え方が必要なのか気付けるかもしれない。
第一、自分が求めている「完全な状態」を理解されようとすることをやめられると自分にとって本気とは何かを知る。
その本気を遂行することにより、進行形で自信を抱ける。一般に語られる努力というものだけで自分を図るのはやめよう。自分が求めている「完全な状態」を否定される筋合いはない。自分も否定をやめよう。せっかく自分で選んだのだから。選べたのだから。たった一人の人間になれる。


明日も今日、今日も明日。
ずっと自分として生きることに懸命なんだよ。

お疲れさま。

「惑わされないで生きる」ってすごいよなぁ。

今日だろうが明日だろうが、
いつだって自分として生きる。
苦しいと思うこともあるけれど、
私が私でいる理由は私がつくる。
そういう気持ちでいたい。


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