雑記 2024/03/18

最近、書いていない。
I AM THATを一章ごとメモ書きしていくのが、重荷になっているのだ。

やはり、
マインドの為すことは 矛盾する
ということなのだろう。

それを気にすることはない。
私はマインドではないのだから。

と、ニサルガの言葉があったような気がしている。
どこかは忘れたが。
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少し前まで、「言葉」や「認識」について考えることが多かった。

しつこいが、
質問者の「言葉の巧みさ」と
ニサルガのいう「言語化不可能」が
何か私に、引っかかっているのだ。

それで一つ思い出した。
「はじめに言葉ありき」 というのがあった。

新約聖書だ。質問者はほとんどキリスト教徒だっただろう。
そして、ディベートというのは英語圏の文化ではなかっただろうか。

それを手掛かりに、調べてみた。

「はじめに言葉ありき」部分の、ギリシャ語による原文はこちらです。
Εν αρχηι ην ο Λόγος
(En arkhēi ēn ho logos、エン・アルケー・エーン・ホ・ロゴス)

簡単に言えば、「アルケーはロゴスなり」。
「アルケー」の意味は、万物の始源・宇宙の根源的原理。

「ロゴス」の意味には、確かに「言葉」もあります。
が、真実、真理、論理、理性、概念、調和・統一のある法則など様々な意味もまた示します。

しかし、ことキリスト教において使われる場合は、ロゴス=キリスト (世界を構成する論理としてのイエス・キリスト、または神の言葉) です。

この意味を、そのまま当てはめましょう。

「アルケーはロゴスなり」
「根源的原理は、キリスト(神の言葉)である。」

……キリストだよ!神なんだよ!つまり、神こそが全ての原則ということだよ!

では、どうして現在、日本では全く違う解釈をしょっちゅうされているのでしょうか?
それが、翻訳マジックです。

「アルケーはロゴスなり」は、英語にする時、「アルケー→beginning」「ロゴス→word」とされました。
「In the beginning was the Word」

それが、日本語になった結果、「はじめに言葉ありき」。

翻訳とは、かく難しきものです。ニュアンス・意味は、多言語でそのままそっくり置き換えられるわけではありませんからね。

ということで、冒頭にも書いたように、残念ながら、

「言葉で規定することが、全ての始まり」という言葉の重要性を語る理論のために、
「はじめに言葉ありき」を引用するのは、全くもって的外れ

「はじめに言葉ありき(聖書)」の大きな誤解?99%の日本人がする間違いと正しい5つの読み解きと活用法
https://novel-shoten.com/life/archives/5104


この指摘が、非常に鋭いのではないだろうか。
日本での誤解に触れているが、日本だけだろうか・・・
「In the beginning was the Word」
これを全力で信じれば、論理・言葉を第一に置くのは不思議では無い。

ロゴス=神の言葉 なのである。
人間社会の言葉ではないのだ。

では、神の言葉とは何なのだろう。
ニサルガの言う「実存からの反映・光・愛」ではないだろうか。
結局、これらは言語化不可能なのだが。

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この世界のモロモロは、ほとんど全て言語化不可能じゃないか。
と、私は飲み込めるのだが・・・
そうではない人もいるのだろう。

タコのおいしさを知らない外国人には、
アレコレと議論せずに、うまいタコ焼きを食わせてやるのが一番ではないだろうか。

五感の情報ですら、言葉に置き換えた時点でかなりの情報が落ちてしまうのだ。
五感情報を言葉に完全に含めることは出来ない、できるなら五感はいらないんじゃないか。
そうゆう次元・宇宙はココではないんじゃないか と、私は思う。
終末期、自ら選択して分かれていく と言うじゃないですか・・・

五感の外の「真我・実存」を下手に言葉にせず、「言語化不可能」と伝えた方が混乱しないというのも、あったんじゃないだろうか・・・
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ただ、信じるのだ。
彼がそうしたように、私も信じよう。

もうすでに、ここに在る。

身体ではなく、マインドではなく、どの私でもない。
何か と、定義付けされることなく
何か と、同一化されることもない

しかし、確かに在る。

ただ起こる 生活の中
身体とマインドの アレコレ
見送りながら 気付いている
私。


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