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【シリーズ第5回:黒人アーティストの人生】🎵ソウル(魂)を感じたい🎵

 このシリーズでは、私の大好きな黒人アーティスト、特に、1970年代、80年代に活躍したR&B、SOULミュージシャンを紹介しています。

・・・さて、誰でしょう🎵



ヒント


  1. R&B、ソウルシンガーです。

  2. 15歳でデビューしました。

  3. James Brown(ジェイムス・ブラウン)のバックで歌ったこともあります。

  4. The Temptations(ザ・テンプテーションズ)のDavid Ruffin(デイヴィッド・ラフィン)のガールフレンドでした。

  5. ソロよりもデュオで有名です。

  6. モータウンといえば・・・と聞かれたら、出てくるシンガーのひとり。

  7. 24歳で亡くなりました。


生い立ち

  1945年、フィラデルフィア生まれ。
 ママは元女優、パパはバーバーショップを経営していた。
 人種がミックスした、比較的裕福な人々が暮らす地域で育った彼女は、3歳のときに、ピアノとダンスレッスンをはじめた。
 ピアノを見つけると、駆け寄って、弾き語りを始める。
 そんな音楽少女の夢は・・・

 ”スター”だ!!!


 しかし11歳のとき、朗らかで明るい彼女の人生に、恐ろしいことが起こる。
 3人の男によるレイプだ。
 まだまだ幼い彼女には、この衝撃をどのようにとらえればいいのかわからない。
 不安、恐怖、混乱、様々な負の感情から逃げるために、彼女は”音楽”に没頭した。
 そして、スターになる夢を叶えるために、フィラデルフィアで開催される、すべてのタレントショウに出演した。

デビュー


 1960年、Scepter Record(セプターレコード)から契約のオファーがあり、ファーストシングル”If You See Bill”をリリースする。
 誰も15歳の少女が歌っているとは思わない。
 まるで成熟した女性が歌う、愛と別れの歌だった。

 学校を休んでツアーにも参加した。
 ツアーから戻ると、12歳年上のボーイフレンドができていた。
 お相手は、1950年代から活躍するDoo-Wopバンド、The Flamingos(ザ・フラミンゴス)のTommy Hunt(トミー・ハント)だ。 

 1962年になると、クラブでレギュラーの仕事もするようになる。
 1週間に6日間、1日5ステージのパフォーマンスだ。 

James Brown(ジェイムス・ブラウン)


 レコード契約、ライヴパフォーマンス、有名人の年上の恋人などなど、彼女はものすごいスピードで大人になり、スターの道を歩みだした。

 もちろん、彼女も彼女のママも、こんなもんでは満足しない。

 ママは、James Brownに会いに行き、娘のパフォーマンスを観に来て欲しいとお願いする。
 JBは、彼女に会いに来た。

 JBと契約が交わされ、バックアップシンガーとして、7カ月のツアーに参加する。
 1963年には、JBのレコード・レーベル”Try Me”から、シングル”I cried”をリリースする。 
 
 順調だ~!!!

 と言いたいところだが、彼女はJBから性的虐待、暴力を受けていた。

 ある日、ショウが終わり、ステージからはけた瞬間、JBはステージの袖にいた彼女をぶん殴る。
 ステージを最初から最後まで見ていなかった、という理由だった。
 そのまま殴られながら、地下にある、JBの部屋へ連れていかれた。

 見かねた仲間のひとりが、その夜、フィラデルフィア行きのバスに彼女を乗せる。
 翌日、ママが乗り込んできて、JBとの仕事が終了した。

 仕事がなくなった彼女は、一旦、音楽から離れ、奨学金を得て、ペンシルベニア大学へ入学した。
 1965年、もうすぐ卒業という頃、The Impressions(ザ・インプレッションズ)のJerry Buttler(ジェリー・バトラー)から、仕事のオファーが入る。
 ナイトクラブでのパフォーマンス、場所はデトロイトだ。

 ショウに出演し始めて1週間が経った頃、ステージに立つ彼女の姿は、Motown Record(モータウン・レコード)のBerry Gordy(ベリー・ゴーディ)の目に留まる。
 翌日、契約の話が持ち込まれた。

 1965年4月25日、20歳の誕生日に、彼女はMotown Recordと契約を結ぶ!


その人物とは・・・




Tammi Terrell(タミー・テレル)で~す。



 その頃のMotownは、The Supremes(ザ・スプリームス)、The Temptations(ザ・テンプテーションズ)、The Four Tops(ザ・フォー・トップス)が活躍し、活気に満ちあふれていた。 

 Motownの人々は、明るく朗らかなTammiを愛した。

 ファーストシングル”I Can't Believe You Love Me”がリリースされると、彼女はThe Temptationsのオープニングを任されるようになる。

 Tammiは・・・恋に落ちた。
 お相手は、The Temptationsの才能あふれるリードシンガー、David Ruffin(デイヴィッド・ラフィン)だ。
 若い彼女はDavidに夢中になる。
 どこにいても、何をしていても、彼女の頭の中はDavidのことだけだ。
 二人は共に暮らし、Davidは彼女に婚約指輪をプレゼントする。

 幸せ~っ!!!

 ・・・と信じていたけれど、2年が過ぎた頃、Davidに妻子がいることが発覚する。
 タミー以外の恋人もいた。

 二人は互いに罵り合い、殴り合った。
 
 けれども彼女はDavidを愛していた。
 そして、レイプの経験のある彼女は、男性に受け入れられることを渇望した。
 後に、Davidがバイクのヘルメットで、彼女の頭を殴ったときに、別れを決断する。
 けれども、Tammiが彼と別れることは、簡単なことではなかった。
 

Marvin Gaye(マーヴィン・ゲイ)


 Davidに夢中になっていても、スターへの夢が頓挫することはない。
 
 1967年、Berry Gordy は、Marvin Gaye(マーヴィン・ゲイ)のパートナーにTammiを指名し、このデュオのために、新しい作曲チームを結成した。

 The Ashford &Simpson(ザ・アッシュフォード&シンプソン)だ。

 そしてThe Ashford &Simpsonが二人のために作った最初の曲が、”Ain't No Mountain High Enough”だ。

 二人の声が美しく、優しく絡み合う。
 声のケミストリーにより、これ以上のデュオはない!という作品に仕上がった。
 この曲はR&B部門で3位を記録する。

 この曲は後に、Diana Ross(ダイアナ・ロス)をはじめ、多くの人がカヴァーしている。
 個人的にはMarvin&Tammiのオリジナルヴァージョンが好きだなぁ。

 続いてリリースされた曲"Your Precious"は2位を記録する。

 これぞ、ベッドタイムミュージック!
 絶対に二人は愛し合ってる!!!
 
 と思うけれど、Marvinには妻が、TammiにはDavidがいた。 
 けれどもステージに上がると、彼らは瞬間的に最高のパートナーとなる。

 そして1968年、3枚目のシングル”Ain't Nothing Like The Real Thing”で、ついに1位を記録する。

 これまでの曲は、別々でレコーディングが行われた。
 けれどもこの曲は、二人でレコーディングブースに入り、ひとつのマイクで歌い、録音された。

 Tammiは、ただ歌が上手いだけではない。
 彼女には、与えられた曲をどのように歌うかという決断力、勇気があった。
 そしてその曲を、最高級のクオリティに仕上げる才能があった。

 さらに彼女は、シャイで、ライヴパフォーマンスが苦手なMarvinのインスピレーションを掻き立て、最高のパフォーマンスを引き出すことができた。 
 これまで多くの女性シンガーとデュエットをしてきたMarvinが言った。

 「俺のパートナーはTammiしかいない。Tammiを超える人はいないよ」
 
 

病気

 そのTammiが病に倒れる。
 ”Your Precious”のレコーディングから2週間後、ステージでパフォーマンスを終えた瞬間、彼女は意識を失い、Marvinの腕に倒れこむ。

 病院に担ぎ込まれた彼女に告げられた病名は”脳腫瘍”だった。
 小さな頃から時々、激しい頭痛に悩まされていた。
 そしてその症状は継続的になり、耐え難い痛みになっていた。
 彼女は脳腫瘍が原因で、心臓発作を起こしたのだ。

 6時間にも及ぶ手術の結果、彼女の腫瘍は脳の奥にまで広がっていることがわかった。
 この場合、完治はない。
 しかし、彼女は決してあきらめなかった。
 彼女には、スターになるという夢がある!

 6か月間のリハビリの後、Tammiは見事に復帰した。
 そしてリリースされた曲が”You're All I Need To Get By”だ。

 スタミナを失っていたTammiは、何度もスタジオを出て、休憩を取らなければならなかった。
 外にでるたびに、Marvinは彼女を労わった。
 そしてTammiは、スタジオで待っている人たちのために、花を摘んで戻ってきた。
 彼女がモータウンの人々に愛された理由だ。


最後のパフォーマンス


 Tammiは癌を克服したと思った。
 けれども、彼女の頭痛は間もなく再発する。
 彼女は決してあきらめず、大きな手術を繰り返した。

 1969年、ステージでのパフォーマンスをあきらめるときがきた。
 彼女が病室で、病と闘っているとき、Motownの人々は彼女を支えた。
 Marvinは、週に一度は電話をかけ、カードを送った。
 Berry Gordyは、医療費をサポートした。

 この時期、Tammiは、ようやく最愛のパートナーを見つける。
 パーティ会場の隅っこで、クロスワードパズルをしていた、Dr.Ernest Garrett(ドクター・アーネスト・ガレット)だ。
 「Tammiは歌に、私は医療に人生を賭けている」
 と話すDr. Ernestは、彼女の歌いたい!という気持ちを理解し、できる限りのサポートをした。

 そして6度目の手術を終えたとき、彼女は車椅子で、最後のレコーディングに臨む。
 彼女の朗らかさはなくなり、体重は42キロにまで減っていた。
 最後のアルバム”Easy”は、作曲をしたValerie Simpsonが声を重ねてサポートしているパートもあるけれど、Tammiが最後の力をふりしぼって歌っている姿が目に浮かんだ。
https://www.youtube.com/watch?v=i6qEOaaLi14


 レコーディングからしばらくしたある日、ニューヨークのアポロシアターで行われていた、MarvinとCarla Thomasのコンサートに、Dr. Ernestに付き添われたTammiが現れる。
 車椅子に乗った彼女は、歩くことはもちろん、話すことも困難になっていた。

 ”You're All I Need To Get By”の曲が流れ始めた。

 Marvinが客席を見ると、Tammiが歌っている!!!

 彼は、Carlaを残してTammiの元に駆け寄り、マイクを近付けた。
 これが、Tammiの最後のパフォーマンスになった。 

 
 Tammiはスターになる夢を叶えるために、3年間で8回もの手術を受けた。
 彼女の歌は、今でも人々に愛され続けている。
 彼女はMarvinの最高のパートナーで、最高のシンガーだった。
 夢は叶ったと信じたい。

 永遠のスター、Tammi Terrellは1970年3月16日、神様の元に旅立った。24歳だった。

 最後に、1968年にリリースされた、私のお気に入りの曲”If This World Were Mine”。
 Tammiの歌が素晴らしい。
 

 



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