Rosa Parks #1
アメリカ公民権運動の幕開けとなった事件といえば、1955年にミシシッピ州で起こったエメット・ティルだ。
同じ年の12月、ミシシッピ州の右隣にあるアラバマ州モンゴメリーで、第二のムーヴメント「モンゴメリー・バス・ボイコット」事件が起こった。
これは、市営バス利用における平等を求めて、黒人が380日間に渡って乗車拒否を行った事件だ。
そのきっかけを作った人物がローザ・パークス。
後に、公民権運動の母と呼ばれるようになる女性だ。
その頃、アメリカ南部には、人種差別をサポートする法律「ジム・クロウ法」が存在した。
各州により、多少の違いはあるけれど、この法律は、学校、図書館、病院、水飲み場、バス、結婚など、多岐にわたって、黒人と白人を隔離するものだった。
例えば、アラバマ州の市営バスに関する法律は次のとおりだ。
座席は白人席と黒人席に分離。
乗降口は白人が前、黒人は後部。
黒人は運転手に代金を払い、一度バスを降りて、後部ドアから乗車。
白人席が満席になった際は、黒人席を白人に譲る。
1955年12月1日、ローザ・パークスは、黒人席の一番前、白人席との境目に座っていた。
白人席が満席になった時、彼女は席を譲らなかった。
「席を譲りなさい」
ドライヴァーの命令にも従わなかった。
ローザは、白人からの虐め、その虐めを守る法律に疲れ果てていた。
そしてエメットのことを考えると、どうしても立ち上がることができなかった。
彼女は法律違反を犯したために逮捕される。
これが、「モンゴメリー・バス・ボイコット」の始まりだ。
ローザ・パークスの生い立ち
ローザ・パークスは1913年、アラバマ州のタスキーギーで誕生した。
大工のパパは、仕事で留守が多かったので、ママは弟を妊娠した時、実家のあるパインレベルに移り住んだ。
しばらくすると、ママは教員の仕事に復帰した。
パインレベルから離れた学校だったため、ママに会えるのは週末だけだ。
この時代、教育を受けて、教職に就ける黒人は限られている。
メイドより賃金が高く、尊敬を得られる教職を簡単にあきらめることはできない。
ローザと弟は、おじいさんとおばあさんと過ごす時間が長かった。
ローザに影響を与えた人物がおじいさんだ。
彼は、奴隷の母親と、白人オーナーの間にできた子供だった。
両親が早にく他界すると、農園を継いだ奴隷監視人は、彼を虐めた。
黒人を見下す監視員を見て育った彼は、将来、白人のために働かないこと、媚びないこと、虐めを受け入れないことを誓った。
ローザは、白人に対し、常に毅然とした態度で立ち向かうおじいさんの血を引き継いだ。
彼女は、「正義」に関して、非常に鋭い感覚を持つようになった。
一方で、白人全員が差別をしないことも知っていた。
近所のおばあさんは、ローザの家族と仲良しで、彼女や弟をとても可愛がってくれた。
パインレベルは小さな町だ。
バスや水飲み場など、公共施設は白人と黒人と共用だった。
ただ、学校は違った。
ブロック造りの白人学校に対し、黒人には学校という場所がなかった。
多くの場合、チャーチが利用された。
白人学校には暖房があったけれど、黒人学校では、年長の子供たちが外で暖炉用の木を拾ってこなければならなかった。
白人学校には机があったけれど、黒人学校にはなかった。
ガラス窓のある白人学校に対し、黒人学校は小さな木製のシャッターのみだ。
白人の子供たちはスクールバスで登校するけれど、黒人は徒歩だ。
同じだけの税金を払っていても、黒人学校には1ドルの負担もなかった。
南北戦争(1861-1865)以降、黒人は奴隷から解放され、自由に南部を出て行けるようになった。
とはいえ、これまでの暮らしを捨てて、南部から出て行ける黒人ばかりではない。
白人の黒人への態度が変わるわけでもない。
戦争が終わっても、黒人の生活が劇的に変化することはなかった。
1918年、第一次世界大戦が終結すると、KKK(クー・クラックス・クラン:白人至上主義団体)の暴力はさらに激しくなる。
国のために命を賭けて戦った黒人兵士が平等を期待することを、南部の白人は許さなかった。
黒人に平等、正義、権利が認められないことを知らしめるため、黒人居住地を徘徊し、チャーチを燃やし、黒人を殴り、リンチにかけた。
ローザの家は、KKKが通過する道沿いにあった。
おじいさんは家族と家を守るため、ベッドで眠らず、ショットガンを手元に置き、暖炉の横のゆり椅子で夜を明かした。
おじいさんの足元には、いつもローザがいた。
この時代、南部の黒人ができることは、危険に巻き込まれないことを願いながら、日々、生き延びることだけだった。
ミス・ホワイト
11歳になると、ローザはアラバマ州のモンゴメリーにある「ミス・ホワイト」に入学した。
先生は全員白人、生徒は全員黒人の女の子だ。
校長先生のミス・ホワイトは、北部のマサチューセッツから、黒人に教育を与えるためにやってきた。
モンゴメリーの白人は、そんなミス・ホワイトを決して受け入れなかった。
ミス・ホワイトは黒人とだけ付き合い、黒人のチャーチへ行かなければならなかった。
学校も2度に渡って燃やされた。
「ミス・ホワイト」の授業は、一般的な教科もあったけれど、料理、裁縫、家庭での病気の治療と看病の方法などがメインだった。
黒人、特に南部では、医師も病院も白人用で、黒人女性は家で看病をしなければならなかったからだ。
ローザが「ミス・ホワイト」で学んだことは他にもある。
「自分は尊い存在であること」
「黒人だからといって、自分が他人よりも劣っていると思う必要はないこと」
「大望を持ち、その望みが叶う可能性があると信じること」
家でも教えられていたけれど、「ミス・ホワイト」に通うことで、強く信じられるようになった。
「ミス・ホワイト」のあるモンゴメリーは大都会だ。
パイン・レベルにはない人種差別が存在した。
水飲み場には、「ホワイト」と「カラード」のサインがあった。
公共交通機関、路面電車も走っていた。
サインはないけれど、黒人は車両の後ろ側だ。
郊外行きのバスでは、荷物を載せるバスの屋根が黒人の場所だ。
人も違った。
モンゴメリーで白人とトラブルを冒すと、リンチにかけられる可能性が少なくない。
子供同士の喧嘩でも、黒人は立ち向かってはならない。
誤って白人の子供を傷つけると、ピストルを持った大人が出て来るからだ。
レイモンド・パークスとの出会い
ある日、モンゴメリーの散髪屋で働く、レイモンド・パークスに出会った。
10歳年上の彼は、ライトスキンであるがための苦労をしていた。
彼の肌はとても白く、白人コミュニティーで暮らすことを許された。
ところが、髪は黒人特有のそれで、白人学校への入学は許可されない。
コミュニティ周辺に、黒人学校はなく、彼は学校へ通うことができず、ママから読み書きを学んだ。
ライトスキンでも、カテゴリーは黒人だ。
白人社会で虐められないためには、怖気づかず、常に正しい意見を述べなければならない。
ひとたび怯えた様子を見せると、その瞬間から、彼は白人の餌食だ。
白人と対等な関係を築くために戦い続けることに疲れた彼は、白人社会を去り、NAACP(全米黒人地位向上協会)に加入した。
活動家として黒人の人権獲得のために尽力するためだ。
1880年から1940年の60年間で、リンチで亡くなった黒人は約5千人だ。
黒人が白人女性に色目を使った、声をかけた、レイプをしたことが多くの理由だ。
もちろん、ほとんどの場合、事実無根だ。
たとえリンチにされなくても、裁判になれば結果は同じだ。
裁判官、判事、全員白人の裁判では、「強姦罪」は「死刑」になる。
レイモンドたちメンバーは、無実の黒人を救うために力を尽くした。
ミーティングは男性のみ、真夜中に行われる。
逃げる状況になった場合、女性は足手まといだ。
ミーティング中、テーブルの上は銃で埋め尽くされた。
常に誰かが銃を携帯し、外を監視し、常に「死」のプレッシャーにさらされていた。
そんなレイモンドを、ローザは心から尊敬した。
1932年、ローザが19歳のとき、彼らは結婚し、モンゴメリーに新居を構えた。
最後まで読んでくださってありがとうございます!頂いたサポートは、社会に還元する形で使わせていただきたいと思いまーす!