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エメット・ティルと白人女性の嘘

 このシリーズでは、アフリカンアメリカンの歴史、公開された事実、事件などを書いていく予定です。
 過去の事件から、と思ったのですが、毎日新しい事実が公開され、追いつかないので、その日、その時に伝えたいことを書いていきます。
 目を覆い、耳を塞ぎたくなるような事件もたくさんあります。
 残虐な内容の場合、写真やビデオを添付する場合は、冒頭にその旨を記載させていただきます。

 第1回は、Emett Till(エメット・ティル)です。

 1955年、シカゴのサウスサイドに住む14歳の少年、エメット・ティルが、ミシシッピ州の親戚を訪ねた際、2人の白人男性から、残虐なリンチを受け、殺害された。

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 1865年、南北戦争で合衆国が勝利し、奴隷制は廃止された。
 けれども、保守的な南部の人々の体質は変わらない。
 1876年、病院、バス、学校、レストラン、電車などの公共機関における人種隔離を行う、ジム・クロウ法が制定される。
 ジム・クロウ法は1964年に廃止されるが、この期間は白人によるリンチが横行する。
 1880年から1940年の間に、南部で約5千人もの黒人が殺害されている。
 ミシシッピ州では500人以上、最もその数が多い州だった。

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 エメット・ティルの事件は、南部ミシシッピ州の閉鎖的で、冷酷な人種差別を象徴した。 

 「Emett Tillの時代から何も変わっていない」

 「私たちはEmett Tillだ」 

 「Emett Tillは未だに正義を見ていない」

 警察官の暴力によって、黒人が殺されるたびに、この事件が言及される。
 彼は公民権運動のアイコンだ。
 公民権運動、BLMの先駆けとなる事件なので、これまでにも他で何度か書いているのですが、改めてnoteでも書いてみようと思います。

とても残酷な内容です。
 最後に添付したビデオは残虐な映像です。

ミシシッピへ行く


 エメットは1941年生まれ、ママのメイミーが20歳のときの子供だ。
 生まれたときから、ひとり遊びが上手で、いつも笑顔のハッピーベイビーだった。
 パパは不在だったけれど、ママとグランマに愛され、彼はいたずら好きの、明るい少年に育った。

 1955年夏、シカゴを訪れていたモーゼおじさんが、ミシシッピに帰る時に同行し、エメットは14歳の夏休みを、おじさんの家で過ごすことにする。

 モーゼの家があるマニーは、ミシシッピ州北西部、ミシシッピ川とヤズー川が合流する、ミシシッピ・デルタにある。
 地図にも表示されない小さな町で、この辺りは、国内で最も南部色が強く、黒人差別が激しい場所だ。

 メイミーは、南部の恐ろしさを知らないエメットのことが心配で仕方ない。
 出発のとき、エメットのパパが使っていたリングを渡した。
 そのリングには、パパのイニシャルが刻まれていた。

 彼らがミシシッピに到着したのは8月21日、コットンの収穫が始まる頃だ。
 エメットは、いとこの子供たちと一緒に、綿つみを手伝った。
 とはいえ、14歳の男の子だ。
 走り回って遊んでいる時間のほうが長かった。

 8月24日、子供たちは、「ブライアンツ」へ向かった。
 白人が、マニーの黒人相手に経営するグロッスリーストアだ。
 エメットが入った時、いとこのウィラーが買物をしていた。
 ウィラーが先に出てくると、モーゼの息子のシミオンが様子を見るために店に入った。
 店の中には、オーナーの奥さんのキャロラインがいたけれど、二人と言葉を交わすことはなかった。
  
 彼らが車に乗り込もうとした時、店の中からキャロラインが飛び出してきた。
 すると、エメットが彼女に向って口笛を吹いた。
 南部で、黒人男性が白人女性に向って口笛を吹くなんて、言語道断!
 子供たちは震え上がり、一目散で逃げ出した。

事件発生

 8月28日午前2時半、

 「この家に、シカゴから来た、太った男の子はおるか?」

 キャロラインの夫、ロイ・ブライアントと、ロイの腹違いの兄弟、ジョン・ウィリアム・ミラン(J.W.ミラン)が、モーゼの家にやってきた。

 手には、45口径のピストルを持っていた。
 彼らはその夜、エメットを探して、数件の家を訪れていた。
 エメットを見つけると、ベッドから連れ出し、質問をした。

 エメットは彼らの質問に、「イエス、サー」、「ノー、サー」ではなく、「イエス」、「ノー」と答えた。
 目の前にいる男たちがどんな人間なのか、南部がどういう場所なのか、エメットには想像すらできない。

 「お金を渡します!どうか、エメットを連れて行かないでください!」

 モーゼの必死の頼みは聞き入れてもらえず、エメットは外に連れ出された。
 そこには3人の人間がいた。

 「この子よ」

 と言う、女性と思われる声が聞こえた後、エメットを乗せたトラックは走り去った。

 子供たちは、エメットが生きて帰ってくることだけを願った。
 一方で、エメットが生きて戻ってこないことにも気付いていた。
 
 その夜、ウィリー・リードは、ミランの家の近くで、誰かが殴られる音と、泣き叫ぶ声を聞いた。
 様子を見に行きかけたとき、ピストルを持ったミランが近付いてきた。
 「お前、なんか聞いたか?」
 ウィリーは、”何も聞いていない”と言って、その場を去った。
 
 3日後、タラハシー川に沈められたエメットが発見された。
 約32キロの綿繰り機に、有刺鉄線でつながれていた。
 衣類は着用せず、人物を特定できないほどのダメージだった。
 けれども、その指には、メイミーからプレゼントされた、パパのイニシャルの入ったリングがあった。
 
 ミシシッピの保安官は、無断で埋葬許可証を手に入れて、人々が死の真相を知る前に、エメットを葬ろうとした。
 けれども間一髪、シカゴ市を介して「埋葬中止」が言い渡された。
 メイミーは、息子の体を取り戻すことに成功した。

公開葬儀


 シカゴに戻ってきたエメットの棺を開けることは禁じられていた。
 けれども、メイミーには、真実を確かめ、この事件と戦う覚悟がある。
 
 棺を開けると、葬儀場周辺は、遺体から放たれる異臭に包まれた。

 メイミーが目にした、エメットの姿は、悲惨なものだった。

 抜かれた舌は、口の中に突っ込まれ、顎の下まで伸びていた。
 右目は飛び出し、頬の真ん中あたりまでぶら下がっていた。
 左目はなかった。
 鼻の甲は、肉切り包丁で叩かれたような筋がたくさん入っていた。
 歯は叩き折られ、2本しか残っていなかった。
 銃で撃たれた耳はなくなり、銃弾が貫通して、反対側の光が見えた。
 斧で頭が割られ、顔と後頭部が二分されていた。
 彼のプライベートも切り落とされていた。

 葬儀は棺を開けたまま行われた。
 彼の姿を公開することにより、多くの若者の命を救うことになる。

 「息子の死は、世界中の社会的弱者、不幸な人々にとって、意味あるものになるでしょう。
 ただ死ぬのではなく、彼がヒーローとして亡くなることは、私にとって意味深いことです」

 葬儀の朝、メイミーはテレビに向って言った。

 エメットの姿は、世間に衝撃的な事実を叩きつけた。
 危険にさらされているのは、大人だけではない!
 彼らの子供たちも死の危険にさらされている!
 これ以上、人種差別を見て見ぬふりをすることはできない!

裁判

 
 ロイ・ブライアンと、J.W.ミランが、誘拐殺人容疑で逮捕された。

 裁判が行われるタラハシー郡サムナーの、サムナー法律事務所の5人の弁護士は、二人の弁護のボランティアを申し出た。
 デルタの町には、弁護団サポートの募金箱が設けられた。
 
 メイミーが裁判に来ることがわかると、自宅に脅しの電話や手紙が届いた。

「エメット・ティルは殺されて当然や」
「裁判に出たら、お前の家を燃やす」
「また別のニガーが殺されるぞ」

 南部の閉鎖的な体質は変わらない。

 1955年9月19日、殺人罪に対する裁判が開始した。

 全米から集まった記者は、この町の人々に違和感を感じた。
 彼らは、二人が殺人犯だと知っているにも関わらず、犯罪者にすることを望んでいない。
 この土地の冷酷な市民性に衝撃を受けた。
 
 5日間行われた、白人主体の裁判のハイライトは、モーゼの証言だ。

 「8月28日の夜、私の家からエメットを連れ去ったのは、この二人です。その日以降、私は、生きているエメットに会っていません」

 モーゼが二人を指さした。
 白人が不利になる証言をするなんて、自殺行為だ!
 モーゼの決して引き下がらない、脅しに負けない勇敢な行動は、人々の心を動かした。

 黒人が白人に立ち向かう、黒人が正義を貫く、歴史的瞬間だった。

 リンチ現場を通りかかったウィリーも、そこにミランとブライアンがいたことを証言した。

 NAACP(全米黒人地位向上協会)のメドガ―・エヴァーズやアムジー・ムーアは、新たな情報や目撃者を見つけるために奔走した。

 彼らは皆、命がけでこの裁判に臨んだ。

 一方、シミオンが店に入るまでの空白の時間について、キャロラインは、

 「エメットが私の腰に手をまわし、みだらなことを言って誘惑しようとした」
 
 と証言した。

 嘘だ!

 メイミーは、エメットに男女間のリスペクトを教えてきた。
 それに、エメットはポリオの後遺症で、緊張すると、どもりが出たり、言葉が出なくなる。
 キャロラインは嘘をついている。

 この裁判で有罪判決が下されることはない。
 メイミーは、陪審員の協議を待たずに、裁判所を後にした。

無罪判決

 協議は67分に及んだが、実際には、後ろの部屋でビールを飲んで、時間つぶしをしていた。
 陪審員たちは、最初から有罪にするつもりなどなかった。

 裁判が終わった瞬間、空に向けて拳銃が放たれ、マニーの町は、独立記念日のように盛り上がった。

 「ミシシッピとはお別れや」

 モーゼも、ウィリーも、命の危険にさらされている。
 裁判の後、すぐにミシシッピを発った。
 誘拐裁判の証言のために、一度戻ったけれど、その後、彼らが故郷の土を踏むことはなかった。

 誘拐事件の判決は20分で言い渡された。
 もちろん無罪だ。
  
 実は、このリンチ事件には、ミランの元で働く、リロイという黒人男性も関わっていた。
 事件翌日、血を洗い流しているリロイが目撃されたが、その後、彼は行方不明になっている。
 ”事件について何か言えば、リロイのようになる”
 黒人たちへのメッセージだった。
 黒人を脅し、自分たちの残虐行為を闇に葬る。
 この時代の、南部では珍しいことではない。

 ミシシッピ州に法律などなかった。

真相


 裁判から4か月後、ブライアンとミランは、4千ドルを受け取り、Lookマガジンに事件の真相を告白した。
 彼らは一事不再理(確定判決が下された事件について、再度審理されることはない)の法則に守られていた。 

 「ミランの納屋で、彼の頭をかち割り、トラックでブラック・ベイヨウ川へ行って、頭を撃ち抜いた。
 首に綿繰り機を巻き付けて、水深6メートルの、泥だらけの濁った水の中に沈めた。
 俺たちは、彼にお仕置きをしただけさ」
 
 「彼は、なぜ死んだだけでいてくれなかったのか、俺にはわからない」
 
 「彼が(南北戦争の)ラインを越えなければ、この事件は起こらなかった」
 
 二人に、罪を犯したという自覚はなかった。

その後

 メイミーは署名を集め、再審を求めてワシントンDCを訪れた。
 けれども、アイゼンハワー大統領は、その要請を認めなかった。

 2004年、この事件の再調査が行われた。
 けれども、2007年には、証拠不十分で調査を終了している。

 2017年、歴史学者のティモシー・タイソンが、ザ・ブラッド・オヴ・エメット・ティルを出版した。
 その中には、キャロライン・ブラウンのインタヴューが載っている。

 「彼がしたことは、彼の身に起こったことに値しません」

 二人だけの店の中、空白の時間、エメットは何もしなかった。
 エメットは、キャロラインの嘘によって殺された。
 
 メイミーは、正義を見ることなく、2003年1月に亡くなった。

 2013年7月、命がけで証言台に立った、ウィリー・リーも亡くなった。
 彼は、ウィリー・ルイスと名前を替え、妻にも、この話を隠し続けた。
 
 エメット・ティルの死から100日後、アラバマ州モンゴメリーで、ローザ・パークスがバスの運転手の命令に背き、白人に席を譲ることを拒んだ。

 「エメット・ティルのことを考えると、席を立つことができなかった」

 エメット・ティルの死は、人々に立ち上がる勇気を与えた。
 公民権運動の幕開けとなった事件だった。

最後に

 白人女性の嘘により、エメットは殺された。
 80歳を過ぎたキャロラインは、

 「夫にやめるように言って、エメットを守ろうとした」
 「私も、ずっと苦しみの中にいた」

 と話している。
 真実はわからない。
 けれども、彼女があの夜、エメットだと断定しなければ、彼は生きていたかもしれない。
 真実は、14歳のエメットが殺されたこと、メイミー、モーゼ、ウィリーは正義を見ることなく亡くなったこと。
 そして、キャロラインは、今も生きているということだ。

 白人女性の嘘により、黒人が危険にさらされる事件は、過去のものではない。

 2020年5月25日、ニューヨークのセントラルパークで、犬の散歩をしていた、白人のエイミー・クーパーが、ヒステリックな声で、911をした。

 「黒人男性が私と私の犬を脅かし、命の危険を感じています!すぐに誰かをよこして!」

 その黒人男性、クリスチャンは、彼女の犬にリーシュを付けて欲しいと頼んだだけだ。
 クリスチャンは無事だった。
 彼の態度と服装が、彼を救ったのかもしれない。
 警察官がいい人だったのかもしれない。
 駆け付けた警察官が悪ければ、彼は殺されていた可能性はある。

 私のダンナは、道を歩いているときに、前から白人女性が歩いてくると、必ず道を譲る。
 歩道が狭いときは、歩道から降りて、道をあける。

 「どんなタイプの女性かわからんやろ」
 
 レディ・ファーストという理由だけではない。
 命を守るために、彼は、常に人を疑いながら生きなければならない。
 彼のような黒人が、今もたくさんいる。
 これも真実だ。 

 最後に、この事件のストーリーを歌にした、ボブ・デュランの、”ザ・デス・オヴ・エメット・ティル(The Death of Emmett Till)”。
 人々がこの事件を忘れないように、という彼の願いが込められている。


最後まで読んでくださってありがとうございます!頂いたサポートは、社会に還元する形で使わせていただきたいと思いまーす!