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タルサの暴動

 アメリカの南中部に、オクラホマ州がある。
 もともと、インディアン部族を強制移住させるために作られた土地で、インディアン準州と呼ばれていた。
 オクラホマ州になったのは、1907年だ。

 今回は、このオクラホマ州で起きた「タルサ人種虐殺」について書いてみようと思う。

オクラホマはアメリカの縮図のような州だった
 1800年初期、強制移住させられたインディアンは、そのとき奴隷として使っていた黒人を伴ってこの土地にやってきた。
 南北戦争(1861年ー1865年)のときは、奴隷解放を目指す合衆国側につく部族もあれば、奴隷存続を訴える連合国側につく部族もあった。
 とはいえ、彼らインディアンも差別を受けてきた側だ。
 南北戦争に勝利し、リンカーン大統領が奴隷解放宣言をすると、インディアン部族は黒人を開放した。
 黒人たちは、この土地で、自由に生きられる権利を手にした!

 州政府はさらに、これまで奴隷として暮らしてきた黒人たちに、黒人だけで再建できるチャンスを与えた。
 インディアン部族の奴隷だった黒人子孫はもちろん、夢と希望をもって、他州からも黒人たちがやってきた。
 彼らは、白人から離れた場所で、自分たちの街をつくりあげていくことになった。

 ところが1884年のゴールドラッシュ以降、白人開拓者は、
「俺らにも入植させろ~!!!」
 と、政府にしつこく詰め寄った。
 根負けした政府は、インディアンに提供した土地の半分を取り上げ、白人に売ることにする。
 1889年4月22日正午、入植料15ドルを徴収し、
 「よーい、どんっ!」
 早い者勝ちで好きな土地を手に入れさせた。
 1901年、タルサで石油が発掘されると、さらに多くの白人たちが金儲け目当てでこの街にやってきた。

 その結果、オクラホマ州の北部半分は黒人富裕層が暮らし、残りの半分は北隣のカンザス州から移住してきた白人が暮らすようになった。
 カンザス州は南北戦争のときに合衆国側として戦った州だ。
 それに対し、南側には、テキサス州やルイジアナ州など、奴隷制度を支持していた連合国側の白人たちが、サザンカルチャーを持って移住してきた。
 その中には白人至上主義のクー・クラックス・クランのメンバーも含まれ、1921年には、その数が3200人に膨れ上がった。
 その結果、オクラホマ州は、南部と北部、合衆国の縮図のような状態になった。

ブラック・ウォール・ストリート
 オクラホマ州北東部のタルサ郡、グリーンウッド地区には、約1万1千人の黒人が暮らしていた。
 すべてのビルディングを黒人が所有し、グロッスリーストア、シアター、スクール、図書館、銀行、病院、ドラッグストア、ホテルなど、108のビジネスが存在した。
 ドクター、ロイヤー、教師、全員が黒人だ。
 白人コミュニティーとは関わらず、何ひとつシェアすることなく、すべて黒人によって運営されていた。
 ブラック・ウォールストリートと呼ばれたこの町は黒人の誇りだ。
 そして、グリーンウッドで暮らす黒人は皆、笑顔だった。 
 けれども白人はおもしろくない。
 彼らはこの町を「リトル・アフリカ」と呼び、黒人の成功を妬んでいた。

事件発生
 1921年5月30日、メモリアルデーのこの日、19歳の黒人少年ディック・ローランドはダウンタウンで働いていた。
 彼の仕事は靴磨きだ。
 ダウンタウンは南部の州法、ジム・クロウ法が適用されている。
 ローランドは、黒人専用のエレヴェーターに乗り、黒人専用のトイレへ行かなければならない。
 その黒人エレヴェーターで、この日、エレヴェーターガールとして働いていたのがサラ・ペイジだ。
 二人が乗ったエレヴェーターから、サラの叫び声が聞こえた!
 駆け付けた人々が見たのは、取り乱したサラと、逃げ帰っていくローランドだ。

 ここに2つの説がある。
 まず、エレベーターが揺れて体勢を崩したローランドが、咄嗟にサラの腕をつかみ、びっくりしたサラが叫んだ説。
 次に、ふたりは密かに付き合っていて、エレベーターの中で、何らかのトラブルがあり、サラが叫んだという説だ。
 現代は最初の説が採用されているけれど、事実は二人にしかわからない。

暴動発生
 翌朝5月31日、ローランドは逮捕される。
 午後3時、白人が発刊するタルサ・トリヴュートが、この事件をとりあげた。
 そこに書かれた内容は・・・
 「ニグロがかわいそうな孤児の少女を襲った!」
 「今晩ニグロをリンチにかける!」
 というものだ。
 危険を感じた警察は、ローランドをタルサ群の裁判所の最上階に隔離する。
 けれども午後7時には、銃を持った数百人の白人が裁判所に集まった。
 新聞が、センセーショナルなスタイルで記事にしなければ、これほどの状況にはなっていなかった。

 午後7時半、
 「このままじゃあかん!」
 意を決意した30人の黒人が、銃を担いで裁判所へ歎願に訪れた。
 「ローランドを守ってください!」
 町でたったひとりの黒人ポリスは約束した。
 「ローランドは大丈夫や。安心して帰りなさい」
 彼らは、速やかにその場を後にしたけれど、武装した白人の数はどんどん増えていく。
 午後10時、
 「もう一度お願いに行こう!」
 75人の黒人が再び裁判所に赴いた。
 この時には、2千人の白人が集まり、その嫉妬と怒りで爆発寸前の状態だった!
 このとき、黒人と白人がちょっとしたもみ合いになり、アクシデントで銃が発砲した。
 この発砲を機に、白人の怒りが爆発した!

グリーンウッドの消滅
 黒人は直ちにグリーンウッドへ引き返したけれど、完全武装した5千人の白人たちが、グリーンウッドに流れ込んだ。
 彼らはマシンガンを撃ち放ち、手当り次第に黒人を殺害し始めた。
 警察官も白人グループに参戦し、黒人を攻撃した。
 各家のカーテンに火が放たれた。
 白人は、黒人の家、ビジネスを破壊し、車、宝石、家具、あらゆる物を運び出した。
 自分たちでは買えない、高価なチョコレートまで持ち帰り、我が子に与えた人もいた。
 
 6月1日午前1時、白人暴徒は空からダイナマイトを落とし、1200軒以上のビルディングを焼き尽くした。
 アメリカの土地に、初めて落とされた爆弾は、肌の色の違う、同じ国民に対するものだった。
 電話もテレグラムも断線され、外部とコミュニケーションを取ることはできない。
 街の中を走る鉄道もブロックされた。
 黒人たちは遠くに逃げることもできず、捕まるか殺されるかしかなかった。

 ほんの数時間で暴動が激化し、通信も断たれたため、暴動の発生は、すぐに外部へ届かなかった。
 鎮圧されたのは、6月1日の午後、ナショナルガードが来て、戒厳令が出てからだ。
 鎮圧までに、300人以上の黒人が殺され、8百人が病院に収容、6千人が拘束された。
 地上と空からの攻撃は、35ブロック以上を焼け野原にした。
 ここで暮らす黒人は、このときすべてを失った。

事件のもみ消し
 豊かな生活をする黒人を妬み、民間人が300人以上を殺害するという、信じられない事件だった。
 ところが米国は、この都合の悪い事件を、その事実を捻じ曲げ、闇に葬った。
 ”ニグロをリンチにかける”という新聞記事のオリジナルは、どこを探しても見つからない。
 事件に関係する記事も抹消された。
 タルサトリヴュートが報告した死者数は白人9人、黒人68人だ。
 その後、176人に訂正しているけれど、翌日には白人9人、黒人21人に激減した。
 ニューヨークタイムスの報告は、トータル77人、うち黒人が68人だった。
 こちらも後に、33人に訂正された。
 オクラホマ州の人体動態統計では、白人10人、黒人26人という報告だった。
 一番近い数字を発表したのは、レッドクロス(赤十字)で300人だった。

 この事件は、歴史の教科書にはもちろん、学校でも触れられることはなかった。
 生き残ったタルサの住民は、警察官に脅された。
 外ではもちろん、家庭内でも、その事件を語ることはほとんどなかった。
 現在60歳以下の白人のほとんどは、この事件のことを知らずに育っている。

その後の状況
 
オクラホマ州がこの事件について正確な報告を行い、虐殺の事実を認めたのは、80年後の2001年だ。
 とはいえ、タルサ市北部は、その後遺症から立ち直っていない。
 彼ら住民は、再建のためのサポートを一切受けていない。
 2001年以降、弁護団は市と州に対し、生存者とその子孫に対する賠償を求めたが、却下された。
 理由は、時間が経ちすぎているということだ。
 銀行や保険会社も彼らを無視し続けた。
 放火によりすべてを焼失した住民に対し、銀行は通帳がないという理由で、預金の払い戻しを拒否した。
 保険会社は、保険証書を持たない彼らの保障を行っていない。
 弁護士のソロモン・サモンズは、数多くの保険会社と銀行に交渉を試みたが、すべての会社に会見を断られた。

 虐殺の事実を認めたタルサ市は、被害者の名前と虐殺のストーリーを利用し、30ミリオンものお金を集めた。
 けれども事件の被害者、被害者の子孫が、この百年間で政府から受け取ったお金は「ゼロ」だ。

 住民はもちろん、土地の再建も行われなかった。
 この土地に病院はない。
 管工事業もなく、水漏れは長時間放置されたままだ。
 グロッスリーストアの誕生は、2020年になってからだった。
 交通手段は発達しておらず、車を所有する経済力がなければ、この日まで、新鮮な食品すら手に入らなかった。
 仕事にすら行けない人もいる。
 タルサの住民の多くが低所得者だ。
 
タルサ人種虐殺から百年
 2021年4月19日、アメリカ合衆国下院司法委員会で、出訴期限延長について再審が行われた。
 この時、事件の生存者三人に証言のチャンスが与えられた。
 彼らは、この機会を百年間待ち続けた。
 
 ヴァイオラ・フレッチャー(107歳)
 「今日、私は、この場所で正義を求めています。
 今でも、銃撃されている黒人男性、道に倒れている黒人の姿が私の目の前にあります。
 あの日から毎日、私は虐殺の中で生きています。
 私の最終学歴は小学4年生で、今日までずっと貧乏でした。
 107年の人生で、私は一度も正義を見ていません。
 ブラック・アメリカンのために、ホワイト・アメリカンのために、すべてのアメリカ人のために、正義を求めます」

 ヒューズ・V・エリス(101歳)
 「虐殺のことは覚えていません。
 家から逃げ出した私たちは、この国で難民になりました。
 黒人の正義を求める声に耳を傾ける人はいません。
 第二次世界大戦、私は黒人だけの大部隊で戦いました。
 アメリカが正しいことをしてくれると信じて、自由のために戦いました。
 帰還すると、自由はなく、差別がありました。
 私たちの願いは、自由と平等がすべての国民に与えられることです」
 彼は、タルサでこの国から裏切られ、戦争へ行って、再び裏切られた。

 レシー・B・ランドル(106歳)
 「私は長い間、正義を待ち続けていました。
 百年間、恐怖、つらい記憶、そして喪失の中で生き続けました。
 私はずっと貧乏でした。
 何度、正義を求めても、黒人のために、それは存在しない。
 正しいことを求める私たちが間違っているみたいです。
 私は106歳です。疲れました。
 最後まで残った3人に、幾ばくかの安らぎをください。
 私に、私の家族とコミュニティに、正義を与えてください」

 他2人のインフォメーションは見つからなかったけれど、ヴァイオラ・フレッチャーは109歳だ。
 彼女は正義を求めて、今も生き続けている。
 彼女に正義を見せてあげたい。
 この国が、タルサの人々に対して、タルサの町に、正しいことをする日が訪れることを願っている。

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「Talking Blues Gig」より。
正義を願うGAVIさんの声です。

 以前、MMでもこの暴動について書いています。
 重複する部分が多いですが、映像もあるので、よろしければご覧ください。


最後まで読んでくださってありがとうございます!頂いたサポートは、社会に還元する形で使わせていただきたいと思いまーす!