見出し画像

【シリーズ第16回:黒人アーティストの人生】🎵ソウル(魂)を感じたい🎵

このシリーズでは、私の大好きな黒人アーティスト、特に、1970年代、80年代に活躍したR&B、SOULミュージシャンを紹介しています。

・・・さて、誰でしょう🎵

さて、誰でしょう🎵

ヒント

  1. R&B、Soulシンガーです。

  2. King of Soulと呼ばれていました。

  3. 作曲もします。

  4. 26歳という若さで亡くなりました。

  5. 私は彼の歌を聞き、R&B、ソウルの世界へずぶずぶずぶ~・・・と引き込まれましたー🎵

生い立ち

 1941年9月9日、ジョージア州生まれ。
 メイコンの空軍基地で働くパパは、時々牧師の仕事もしていた。
 彼は、子供の頃から教会のクアイアで歌い、ギターとピアノを習った。
 高校生になると、学校のバンドで歌う他、日曜日には、メイコンのラジオ局でゴスペルを歌い、お小遣いを稼いだ。

 15歳のとき、家計を助けるために、学校をやめて働き出した。
 パパが肺結核になり、時々入院しなければならなかったからだ。
 井戸掘りや、ガソリンスタンドの仕事をしながら、時々クラブでパフォーマンスをした。
 
 17歳のとき、タレントショウに出演し、15週連続で勝ち進んだ。
 Little Richard(リトル・リチャード)に憧れ、感銘を受けまくっていた彼は、Little Richardのように歌った。
 そんな彼の実力を見抜いた人物が、ブルーズ・ギターリストのJohnny Jenkins(ジョニー・ジェンキンズ)だ。

プロになる!

  彼は、Johnnyが率いる、2つのバンドのリードシンガーのポジションを手に入れた。

 さらに!!!

 憧れのLittle Richardのバンド、Upsetters(アップセッターズ)に雇われた。
 ちょうど、Little Richardが、ロックンロールをあきらめ、神に音楽を捧げると決めたときだった。

 彼は20歳になるまでに、ローカルのクラブで、1ギグ、$25ドル(現在価値$235ドル)を稼げるアーティストになっていた。

チャーンス!!!

 1962年、Johnnyが、メンフィスのStax Record(スタックス・レコード)で、レコーディングをすることになった。
 彼は、運転免許のないJohnnyのために、ドライヴァーとして同行した。
 
 このチャンスを逃すわけにはいかない。
 スタジオの中に入れない彼は、

「俺の歌を聞いて~!!!」

 と外から頼みこんだ。

 そして!!

 Staxのハウスバンド、ギタリスト、プロデューサーとして知られるSteve Cropper(スティーヴ・クロッパー)が、彼の歌を聞いてくれることになった。

 たまたま、Johnnyのレコーディングが、予定より40分早く終了したこともラッキーだった!!

 彼の歌を聞いたSteveは・・・

「今すぐ、レコーディングだー!!!」

 その場でレコーディングが行われた。

その人物とは・・・







 Otis Redding(オーティス・レディング)でーす🎵

 Little Richardの影響を受けていた彼が、自分のスタイルを見つけたのもこの時だった。
 この時録音された、彼のソウルが詰め込まれた曲が、These Arms of Mine。

 うーーーん、第一声でメロメロです💛

 「俺の腕で君を抱きしめることができたら、なんて素敵なんだろう。
 俺の腕は、熱く、熱く、君を求めてるんだ。
 君を抱きしめたくて、仕方がないよ。
 俺の女になってよ。
 誰かに大切にして欲しいんだ。
 君の腕で、俺を抱きしめて欲しいんだ。
 君のやわらかい唇が必要なんだ。
 俺を抱きしめて、俺はそんなに悪くないって教えて欲しいんだ。

 ううぉ~ん💛私が抱きしめる~!!

 たまりません💛💛💛
 

Stax Record

 1960年代から1970年代はじめ、南部のソウルレーベルといえば、Staxだった。
 Otisがはじめてレコーディングをした1960年代はじめ、アメリカ南部にはジム・クロウ法が存在した。
 黒人と白人が同じ場所で働くことは、ミュージシャンといえども危険な時代だ。
 けれどもStaxでは、オープン・ドア・ポリシーを掲げていた。
 プロ、アマ問わず、ミュージシャン、コンポーザー、プロデューサー、誰もがウェルカムだった。
 このようなStaxのオープンな環境があったからこそ、黒人のOtisも、すぐにスタジオに入ることができた。

 Staxといえば、モータウンのお洒落なサウンドとは異なり、少し泥臭い感じがする。
 そのサウンドを確立したのが、Otis Reddingだ。
 原点はゴスペル。
 南部の黒人の怒り、憤り、叫びが込められた、力強いゴスペルのサウンドに、ブルーズのテイストも感じられる。
 そのスタイルはストレートでソウルフル。
 まさに魂の歌なのだ。

Monterey Pop Festival(モントレー・ポップ・フェスティヴァル)

 Otis Reddingの、初のメジャー・パフォーマンスが、1967年、カリフォルニア州モントレーで3日間行われた、Monterey Pop Festivalだ。
 このフェスティヴァルは、1967年の「Summer of Love」の始まりだった。
 「Summer of Love」は、米国を中心に巻き起こった、ヒッピーが主導した、文化的、政治的主張を伴う社会現象だ。

 フェスティヴァルのパフォーマーは、The mamas & papas(ザ・ママス&パパス)、Simon&Garfunkel(サイモン&ガーファンクル)、The Animals(ザ・アニマルズ)、The Who(ザ・フー)など、多くが白人だ。
 黒人パフォーマーは、Otisの他にはトランぺッターのHugh Masekela(ヒュー・マセケラ)と、Jimi Hendrix(ジミー・ヘンドリックス)がいた。
 20万人の観客の多くが白人で、この頃はまだ、Otisのことを知る人は、ほとんどいなかった。
 無名のOtisが、白人の観客の心をつかむことができるのか?
 プレッシャーは半端ではない。
 
 ショウが開始した。
 前半は、観客もどのように反応したらいいのか、躊躇している様子が感じられる。
 しかし、時間とともに、彼らがOtisの呼びかけに、応えるようになる。

 コール&レスポンスだ!!!

 Shake

 Otis Redding、全力疾走!!!
 これに応えず、なにに応える!!!

 バンドが白人と黒人で構成されている点も見逃せない。

 Respect

 「ハニー、欲しいものはなんでもあげるよ。
 俺がいない間に、ちょっといたずらをするのも構わない。
 でもね、俺が仕事から帰ってきたら、ほんの少しでいいから、リスペクトして欲しいんだ」

 この時代、彼ら黒人男性は、職場で、社会で、虫けらのように扱われる。
 殺されても構わないような、ちっぽけな存在だ。
 家の中だけでも、自分が立派な男であることを感じたい。
 家族に危険が迫った時は、黒人男性は、真っ先に飛び出して行って、家族の盾になる。
 男は、少ない稼ぎも、命も家族のために捧げている。
 せめて、ほんの少しのリスペクトを求めるのは当然だ。
 ファンキーで、明るいサウンドだけれど、この歌詞は、黒人男性の叫びなのだ。

 曲が始まる前、Otisが、
 「俺の友達がこの曲をとったんだよねー」
 と話している。
 Aretha Franklin(アリサ・フランクリン)だ。
 サウンドも歌詞も変わっているけれど、合わせて聞くとおもしろい。

 「ベイビー、私がお願いしてるのは、私をリスペクトしてってことよ。
 あなたが仕事に行っている間、私は悪いことなんかしてないわよ。
 したくないからね。
 あなたは好き勝手しているけど、私はするべきこと、できることはすべてしたのよ。
 キス?ないよりマシね。
 でも、私が求めているのは、ほんの少しのリスペクトよ。
  どういう意味か、考えたほうがいいわよ。
 いいかげんにしないと、家に帰ったとき、私の姿がないかもしれないわよ」

 女性が強いという点は同じだけれど、この歌では、女性が夫にリスペクトを求めている。
 
 OtisもArethaも1940年代生まれだ。
 稼ぎの少ない夫を責める女性もいただろうけれど、女性はまだまだ、自分自身を主張できる時代ではなかった。
 夫に口答えは許されない。
 外のストレスを家庭にぶつけ、ワイフに暴力を振るう男性もいた。
 アリサの歌は、家庭のことを完璧にする女性が、夫にリスペクトを求めている歌、女性の叫びなのだ。

I've Been Loving You Too Long

 「俺はこれまで君を、ずっと愛し続けてるんだ。
 でも、君は俺の愛に疲れて、自由になりたいみたいだね。
 君のいる人生は素晴らしかったよ。
 今さら、この愛を止められないよ。
 君の愛は冷めていくけれど、俺の愛は今でも強くなってるんだ。
 少し長く愛しすぎた?
 でも、愛することをやめられないよ。
 お願いだよ。
 君を愛し続けたいんだ。
 お願いだよ。
 俺の愛をここでストップさせないで。
 お願いだよ。
 愛してるんだ。
 俺の心、魂の声を聞いてくれよ」

 聞く聞くーーー🎵
 愛し続けてくださーい♡

 さて、この曲が始まるとき、Otisが観客に問う。

 「俺たちは、互いに愛し合ってるよね?!そうだろう?」

 誰もが、人を愛する気持ちを持っている。
 同じ人間だからだ。
 同じように人を愛することができる人間なのに、肌の色が違うという理由で、愛することができない。
 憎しみを持つ人もいる。
 同じ人間なのになぁ。
 悲しいな、と思う。

 フェスティヴァルが終わった後、ストリートでは黒人と白人が会話をする場面も見られた。
 オーティスの全身全霊で歌う姿が、音楽が、人種の垣根を超える可能性を示した瞬間だ。

ファースト&ラストソング

 このショウから数週間後、彼はStaxのプロデューサー、Steve Cropperに電話をした。
 
 「Steve!曲ができてん!
 レコーディングや!
 この曲は、最初のナンバー・ワン・ソングになるよ!」

 この曲を聞いた時、Steveは、

 「俺らが待ち続けた、探し続けた曲ができた!!!」

 と思った。

(Sittin' on)The Dock of the Bay

 「朝日の中で、港に入って来る船を見ていた。
 夕焼けが沈む時まで、港に出入りする船と、打ち寄せる波を見ていた。
 ジョージアを発ち、サンフランシスコのベイエリアへ向かった。
 何もなかったし、何かが起こる気もしなかったからだ。
 でも、やっぱり何も変わらない。
 俺は相変わらず、疲れた体を休めている。
 場所が変わっただけで、相変わらず孤独だね」

 のんびりとしたサウンドに、哀愁が感じられる。
 公民権運動が盛り上がっている時代だった。
 ジョージア州を出ても、人種差別がなくなるわけではない。
 改革という戦いの中で、多くの黒人が、希望と失望の中に生きていた。
 
 この曲のライヴ映像はない。
 レコーディングの3日後、1967年12月10日、彼は帰らぬ人となった。
 悪天候の中、彼とバンドメンバーを乗せ、ウィスコンシンへ向かっていた自家用飛行機は、真冬の湖に墜落した。
 
 The Dock of The Bayがリリースされたのは、事故の翌年、1月8日だ。
 そして彼が予言したとおり、この曲はビルボードで1位になった。

 最初に大ヒットした曲は、彼の人生のラストソングだった。

さいごに・・・

 おしゃれなモータウンのサウンドも好きだけれど、私はStaxのヘヴィーで、泥臭いサウンドがたまらなく好きだ。
 Otis Reddingの歌を聞いた瞬間、

「この音楽が好きだ!!!」

 と思った。

 Otis Reddingが書く詩は、想像がほとんどだった。
 けれども、”(Sittin' on)The Dock of the Bay”と、”Fa-Fa-Fa-Fa-Fa (Sad Song)"は、彼の真実の言葉だったとSteveが話していた。

 Fa-Fa-Fa-Fa-Fa (Sad Song)

 「Fa-fa-fa-fa-fa-fa-fa-fa-fa
 俺はいつも悲しい曲ばかり歌ってきた。
 悲しい曲しか知らなかったからね。
 でも、俺の悲しい曲が、俺のメッセージが君の深い部分に届き、君を感動させて、君の心と体を動かす。
 今夜のメロディはスウィートだね。
 さぁ、君の番だよ。
 あぁ、素晴らしいメッセージだね。
 俺は、こんな優しいメッセージをずっと聞きたかったんだ」

 彼は、いつも全力で歌う。
 そんな彼のエネルギーが、聞く人の心を動かし、感動させる。
 シンガーとしての彼の願い、ソウル、音楽に対する姿勢とリスペクトが詰まったメッセージ・・・

 と勝手に解釈しました。
 
 彼の歌を聞いて、彼の叫びを感じてもらうのが、一番ですね🎵 


最後まで読んでくださってありがとうございます!頂いたサポートは、社会に還元する形で使わせていただきたいと思いまーす!