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春は遠き夢の果てに (七)

     七

 やわからい微笑みをうかべたまま、静枝は袱紗を受け取ると、両手で包み込んで、祈るような形で胸の中央で抱き締めて、そのまましばらく瞑目していた。
 そっと立ち上がると、箪笥の一番上の引き出しに収めてあった、臙脂(えんじ)色の袱紗を取り出し、それぞれから中身を抜き出すと、テーブルの上に双つ並べる。
「きれいななあ」
「きれいやろう、優希。おばあちゃんの、たいせつな、たいせつな宝物なの」
 漆塗りの貝の内側に、鮮やかな紅色で描かれた可憐な蝶を、美佳も改めて眺める。ふと、それぞれの蝶が立体的に飛び出して、再会を喜ぶように二匹で舞い躍る様子が見えた気がして、黒い大きな瞳をぱちぱちとしばたたかせる。
「健吾さん、おじいさまから、仔細は聞いてはるの?」
「はい、大まかなところは。あのじいさんも照れ屋やったんで、なかなか細かいとこまでは聞き出せなかったんですけどね」
「健吾さん、心で交わした約束してたのに、おじいさまのこと、待つことができずに、本当にごめんなさいね」
 姿勢を正すと、静枝は深々と頭を下げる。
「いやいや、やめてくださいよ、静枝さん!」慌てて膝立ちになって、健吾は両手をあわあわ振ってしまう。
「じいちゃんね、きっと、最高に幸せやったと思うんですよ。最愛の人に出逢って、その想いを生涯、大切にすることができたんですから。あ、もちろん、ばあちゃんのことも愛してたし、家族もすごい大事にはしてくれてたんですよ。その一方で、誰にも言わんと静枝さんへの想いを抱き続けて、梅の時季にはこっそり独りで花見に行って、それを最後に『白天梅』って形にしよったんですから……」
「ありがとう、健吾さん」
 しどろもどろになりながら弁明してくれる健吾を、少し瞳に涙を浮かべて、静枝はにっこりと見詰めている。
「あの縁談ね、実はわたしが仕組んだものなの」
「えっ?!」「そうなの?!」声を上げる二人に、くすくす笑いながら頷いて見せる。
「わたしね、小さい頃から決まってた、別の許婚がいたの。大阪の大店の御曹司でね、あの人のところにお嫁に行くんやわって、特に感慨もなく受け入れてたの。でもね、京都の酒蔵の寄り合いで、よう見かける人がいて、何度かお逢いするうちに、ぞっこんになってしもて」
「それが彼のおじいさん?」
「そう、建造さん。かっこよかったのよ~、すらっと背が高くて、いつも颯爽として。美男子タイプやないんやけど、にっこり微笑む細面に、えもいわれぬ愛嬌があってね。そうね、ちょうど、坂本龍馬さんみたいな、人を魅了するというか」
「あのじいさんがっすか……」
「これ、健吾さん。それでね、父に、頼む……というより、ほぼ強制したの。一之瀬さんとの縁談を進めて下さいって。父も初めは、あんな小さな……ごめんなさいね……小さな酒蔵に嫁いでも利得はない、言うて強硬に反対してたんやけど、利得ってなんですか?! 娘の幸福より蔵の利得が大事ですか? って、憤って泣いて見せたらついに折れてくれてね」
「おばあちゃんすごい」
「急な話やったから、あちらさんも、すわ乗っ取りか、政略結婚か……って、警戒してはったみたいやけど、酒飲みながら腹割って話したら分かってくれたって、お父さんも笑てはった」
「ひいおじいちゃん、えっと、如月酒造の先々代の社長よね。優しい人だったの?」
「うううん、厳格な怖い人やったけど、思い返してみると、あたしには甘かったわねえ」
「ふふ、それを見透かしてたんだ」
「そうそう、見透かしてたの」
「おっきい酒蔵って、如月酒造のことやったんですね。そらうちなんか、吹けば飛ぶような零細企業ですわ」
「乗っ取ったげた方が良かったかしら?」
「いや、そうなったらうちのじいちゃん、窮屈で逃げ出しとったかも」
「ふふ、きっとそうよね。ねえ、おじいさんの話ししてええかしら?」
「って、うちのおじいちゃんのこと? 今? このタイミングで?」
「そう、うちのおじいさん、三男(みつお)さんのこと。おかしいかしら?」
「いえ、じいちゃんの恋敵のことですよね。聞いてみたいです、ぜひ」
「三男さんはね、伏見の米問屋で働いてはったの。酒米とか、蔵人のまかないとか、なんぼでもご用あってね、よううちの蔵にも出入りしてはった」
「みつおさん、あの方ですか?」
 奥の間の仏壇の横手に、故人の遺影が並んでおり、その一番左に、なんとも柔和な男性の貌があった。丸顔で、綺麗な白髪で、細められた瞳が印象的なその人を、健吾は直感的に見分けることができた。
「そう、あの人。ほんまに優しくて、ええ人やったのよ。“グリーン・タブ”を持ってる人でね、ほら、下の川べりの桜並木、あれ、おじいさんが全部植えはったんよ」
「ほんまですか? すごい!」
「ふふ、人よりも、木ぃと向き合ってるほうが好きやったんかもしれん」懐かしそうに、静枝は微笑んでいる。
「あの人が言うにはね、米問屋に丁稚奉公に入って間もない頃から、わたしに憧れてくれてたんやて。でも、大きい蔵のお嬢さんやし、ちゃんとした許婚もいるいう話やから、高嶺の花や思うて諦めてたんやて。あの人も戦争にとられはって、終戦の年に帰還しはって、『またお世話になります』言うて、挨拶しに来てくれたん、よう覚えてます。その時には、あたしの許婚が戦死したっていうことも、聞いてたみたいで、ちょっと申し訳なさそうにしてはったわね」
「“戦死”って聞いてたの?」
「そうなのよ。建造さん、終戦の前の年に、“戦死”の報が届いてたの。あたし、どうしても信じられなくてね、一生待ち続ける気でいたし、父が持ってくる縁談の話も、全部断ってたの。しまいには父も諦めて、あいつの好きにさせとけって、こぼしてたみたいね」
 一呼吸置いて、お茶で喉を湿らせる。意味が分かっているのかどうか、優希も興味深そうに話しに聴き入っている。
「終戦から5年以上経った、昭和二十六年の春、三男さんが、郷里の花城に帰ります言うて、挨拶しに来てくれはったの。三男さんは名前そのままの三男坊なんやけどね、次男さんは戦死してはって、年の離れた長男さんがこの家継いではったんやけれど、その冬に病死されて、自分が継ぐことになりました……って」
「それまでおじいちゃんとは、何かロマンスみたいなものはあったの?」
「うううん、なあんにも。シャイな人やったから、ぽつぽつ言葉を交わすくらいでね。ただ、わたしに好意を抱いてくれてはるのは、はっきりと感じてたかしら」
「うんうん」
「それでね、花城に、すごく綺麗な枝垂桜があるから、お花見に来られませんかって、その時初めて誘われたの。名残惜しい気持ちもあったし、あの頃は家に閉じこもりがちで、楽しいこともあんまりなかったから、たまにはええかなって思て、お誘いを受けて。大変やったのよ~、当時はバスもここまで来てなかったから、2時間以上山道を歩かされてね。でもね、そんなしんどさ、きれ~に忘れるくらい、桜は綺麗やったの。周囲が淡い紅色に染まって見えるくらい、紫がかったピンクの花弁が鮮やかでね、時間を忘れて、何時までもいつまでも魅入ってたの」
「おはなのかみさまいはったん?」
「うん、おはなのかみさまいはって、おばあちゃんのこころ、うきうきさせてくれはったん。で、おじいさん、カチカチに緊張してるから、何かあるなあって思ってたら、こう言うてくれたの。『静枝さん、この場所で、あなたを待ち続けることを、許してもらえませんか』……って。『あなたが一生、許婚を待ち続けるつもりなのは、よく分かってます。ぼくはそれでええんです。でも、もし、ちょっとでも可能性があるんなら、ここであなたを待たせてもらえませんか? おじさんになっても、よぼよぼのおじいさんになっても、ぼくはあなたのことを待ってますから』って」
「きゃ~っ、愛の言葉ね!」
「それでね、あたし、こう言うたの『そんなんいやです。今すぐお嫁さんにしてくれへんかったら、あたしいやです』って」
「やんややんや~……って、あれ、なんかごめんね、健吾さん、ちょっと落ち込んでる?」喜んで拍手しかける女子組だったが、うつろな眼で畳を見ている健吾に気付き、慌てて手を止める。
「あ、大丈夫。なんか自分が振られた訳でもなのに、心のふか~いとこに穴が開いた感じやけど、ぜんぜん大丈夫やから」
「ごめんね、健吾さん。言い訳するつもりやないけど、あたしね、枝垂桜の前に行くまでは、ほんとうに、誰とも結婚なんかするつもりはなかったの。一生独りで、建造さんのこと待ってるつもりやった。でも、満開の桜が漂わせてる陽気に触れた瞬間、幸せになってもええ……、うううん、幸せにならんなあかん! って、ふっと心が切り替わったの。優希の言うように、お花の神様が心を和らげてくれはったのかも知れんね」
「その枝垂桜って……」
「まだあるの。今一番綺麗な時よ。あんたら後で行ってきたらええわ」
「静枝さん、一つお訊きしたいんですけど、婚礼の花嫁行列、祖父は隠れて眺めてたそうなんですよ。気付いてらっしゃいましたか?」
「ええ、はっきり気付いてました」表情を引き締めて、静枝は応える。
「不思議なことに、本当に不思議なことに、あの時、建造さんのお姿を認めても、後悔や罪悪感は、まったく浮かんでこなかったの。『お役目、ご苦労さまでした。あたしはこの人と、幸せになります』そう気持ちを込めて、一礼させてもらいました」
「はい。祖父も、正しくそう受け取りました。あの時、あなたが毅然とした態度で居て下さったから、祖父もその後の人生を歩めたんです。静枝さん、ほんとうに、ありがとうございました」
 端座して、深く頭を下げる健吾の姿を見て、静枝の瞳に涙が溢れる。
『ありがとう』
 ふと、何者かの温情が心に響く。その温かな“思い”は、意識した途端に胸裏いっぱいに広がる。眼の前の若者、隣りにいる娘たちを初め、周りの存在全てに、限りない愛情を感じる。白光のような歓喜が、全身に満ちる。浄化の涙は、もう存在しないと思っていた、過去の苦悩や罪悪感を、優しく融解してゆく……


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