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春は遠き夢の果てに (三)

     三

 木製のベンチに腰かけて、小川の流れを見るともなく見下ろしている。
 少し先の河原では数本の桜が見ごろをむかえており、ゆっくり散策する人たちの姿もちらほら見える。
 道の駅に併設された森林公園であり、中央を流れる小川に沿う形で、遊歩道が整備されている。花城までは、休憩が必要なほどの行程ではないが、美佳の気持ちをクールダウンさせるべく気を使ったのか、健吾は此処で小休止をとってくれた。
 優希が “ほんとのこと” を分かっていたという事実は、大きなショックを美佳にもたらした。
 どうやって知ったのだろう……。
 子供だからと侮ることなく、優希の近くでは絶対に出生にまつわる話題はしてこなかったと断言できる。親戚にはさすがに事情は説明してあるが、厳重に口止めしてあるし、両親を含めていずれも遠方に居るため、頑是無い幼児にこっそり告げ口することは考えにくい。保育園のママ友は、みんな本当の子だと思っているはずだし、唯一事情を知っている園長先生も信頼できる人柄で、彼女がわざわざ秘密を漏らすとも思えない。
 改めて、他人の子を育てる難しさと責任の重大さがのし掛かってくる。たった一つの齟齬が、せっかく築いてきた関係を一瞬にしてぶち壊してしまいそうな、根深い不安がある。自分のしてきたことが、全て誤りだったような気がして、暗い後悔の念が心を侵食してゆく。
 優希は、50mほど離れた河原で、一人で機嫌よく遊んでいる。いつも無意識のうちにあの子の所在を確認してしまう習性に気付き、ふっと自嘲する。
 いっそ、居なくなっちゃえば良いのに……いつの間にか巡らせていた驚くほど冷たい思念を、頭を振って慌てて振り払う。

 ここ何年か、どれだけ自分の時間を過ごせたというのだろう。いつもいつもあの子のことが優先で、旅に行くことも、映画に行くことも、ショッピングに行くことも、カフェでゆっくり読書することすらできていない。
 いけない……と、心のどこかで警鐘を鳴らしつつ、自己憐憫の渦はどんどん大きくなり、熱い涙がじんわりと瞼を濡らしてゆく。
「おまたせ。コーヒー、アイスでよかったかな?」
 コンビニに飲み物を買にっていた健吾が、大きな歩幅で歩み寄ってくる。コーヒーを買うだけにしては長くかかっており、気を使ってしばらく一人で考える時間をくれたのかも知れない。
「いちおうシロップとクリーム持ってきたけど、使う?」問いかけに軽く首を振っただけで、お礼も言わずに、透明なプラのカップを受け取る。
 いつも穏和な健吾に大声を出されたショックも身裡に残っており、解きほぐせないわだかまりが態度を硬化させている。早とちりした自分が悪いのは分かっているのだが、それにしても人を恫喝するようなあんな大声を出さなくてもいいのにと思う。
「ズボン、だいぶ乾いてきよったわ。旗みたいに車の外になびかせてたらよう乾くんやろうけど、まさかゆきちゃんの前でパンツ丸出しってワケにもいかんしね」
 しょうもない軽口に反応する気にもなれず、無視された形の健吾は所在なげにカップに突き立てたストローをすすっている。
「あの子、なんで分かったのかしら……」虚空に視点を据えたまま、美佳がつぶやく。
「絶対、そう絶対に、あの子の前ではそんな話しはしてこなかった。見ただけで分かるような写真や書類もないし。誰かが悪意でこっそり告げたとしか思えない」
「その事なんやけどさあ……」いかにも言いにくそうに、健吾は頭の後ろに手をやって、もむような仕草をする。
「ゆきちゃん、不思議な能力(ちから)を持ってるんやないかって、感じたことない?」
「不思議なちから? なにそれ?」この人は何を言い出すんだろうと、つい険のある視線で健吾を見つめてしまう。
「おれらが初めて会うた時、ゆきちゃんおれのこと、“ちうちょのおにいちゃん”言うてたん、覚えてへん?」
「ええっと、言ってたかしら?」
「言うててん、確かに。おれも、初めはぜんぜん意味わからんかった。でもな、これ改めて見直してみて、ちょっとびっくりしてもうて」そう言って、カーキグリーンのショルダーバッグの中から、小さな藍色の袱紗(ふくさ)を取り出し、美佳に手渡す。
「これ、見てみてくれる?」
 格子柄が織り込まれたその美しい袱紗を手にした時、不思議と胸を衝かれる想いがした。茶金色の紐をほどいて、中身を確かめる。収められていたのは小さな貝殻で、漆塗りの内側には、鮮やかな紅色で二匹の蝶が描かれている。
「綺麗……。これは?」
「うん、貝合わせいうて、昔のおもちゃなんやけどね、順を追って話すわ」

 河原で遊んでいる優希が何かみつけたようで、右手でつまんでこちらに手を振っており、目敏く察した健吾が猿臂を伸ばして「グー」サインを返している。
「もう三年ほど前か、うちのじいちゃんが死によるちょっと前に、改まった感じで部屋に呼び出されてね、お前に頼みたい事がある、言いよんねん。何か思たら、引き出しから、この袱紗を大切そうに取り出して、『これを花城のしずえって人に渡して欲しい』……って」
「しずえって人?」
「うん。それで『ほな頼む』って切り上げようとしよるから、それだけやったら訳わからんから、ちゃんと説明してくれって食い下がってんな。あのじいちゃんも韜晦癖があってねえ。やっとこさ渋々、ぽつりぽつり話しよったところによると、じいちゃん、うちのばあちゃんと結婚する前に、別の許婚(いいなずけ)が居たらしいねん」
「……うん」
「昭和十年代、伏見の大きい酒蔵の娘さんと縁談があって、本人同士も気が合って、相思相愛の仲やったらしい。でも、じいちゃんが戦争に行くことになって、周囲はその前に縁談まとめてまおとしたらしいねんけど、じいちゃんは『自分が死んだら相手が独りになるから』って、破談を申し出てんて」

「うん」
「そしたら相手の女性が、同じ絵柄の貝合せの一つをじいちゃんに渡して、『いつまでもお待ちしておりますから』って、言うてくれたんやて」
 掌に包んだ愛らしい貝殻をもう一度見詰める。『いつかまた一緒になりましょう』……“その人”が込めた強い思いが、ひしひしと伝わってくる。
「じいちゃん、中国方面に出征して、それは辛い思いしたみたいやねんけど、終戦後もシベリアに抑留されてね、5年以上も帰れんくて、家族含めてもうみんな、死んだもんと思ててんて。なんとか生き残って、帰還してみたら、しずえさん結婚決まったそうやって告げられて……。矢も楯もたまらず、伏見のお家に行ってみたら、なんとその翌日が輿入れやって言われて、じいちゃん、一晩かけて花城まで歩いていったんやて。誤解せんといて欲しいねんけど、婚礼ぶちこわそうとか、花嫁奪い返そうとか、そんな気持ちは毛頭なかったと思うねん。ただただ、ほんまに、じっとしてられへんかったんやと思う。今にも倒れそうなボロボロに疲れ切った身体を動かしてんと、十年近い極限状況の中で、ずっと抱き続けてきた生きる希望を失ってしまう現実に、耐えきれへんかったんやと思う」
 健吾は一度言葉を切ると、気持ちを整理するように、ゆっくりと深呼吸する。
「小川沿いの小道を、ゆっくり進んでゆく花嫁行列を、木陰に隠れて、じいちゃんずっと見てたって。絶対に分かるはずないと思ってたのに、天女みたいに美しい花嫁が、ふと歩みを止めて、自分に向かって一礼してくれたって。それははっきり、“決別”の意思表示で、あれがあったから、自分はそれからの人生生きてこられたって、じいちゃん言うとった」
「それが、あたしのおばあちゃんなのね」
「うん。こないだ確認したから間違いない」
「じゃあ、大谷梅林を案内してくれた地元の人って……」
「うちのじいちゃんやね」
「なんてこと……」美佳はうつむくと、感に堪えないといった風に、頭を大きく左右に振る。
「ほんまは、もっと早く静枝さんのこと探して、この貝を届けるべきやったのかも知れんけど、でも、なんとなくやけど、じいちゃんも是が非でも探し出してくれって、望んでた訳ではないと思うねん。何て言うか、ただバトンを渡したかったっていうか……」
「バトンを?」
「うん。上手く言えへんねんけどね。そや、そんで、ゆきちゃんのこと」健吾は、同じベンチの右隣に座っている美佳に向き直る。



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