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春は遠き夢の果てに (十一)

     十一

 それから二ヶ月ほど経った、真冬のすごく寒い夜、おばあちゃんから電話があってね、すぐにレナちゃんの様子を見に行ってって言うの。お米や料理をまとめた荷物が、宛先不在で戻ってきてしまって、何度電話しても出てくれないからって。
 おばあちゃんもね、レナちゃんが仕事やめてることは知らなかった。悪いことは重なるもので、おばあちゃん年末に不整脈がでてしばらく入院したりしてて、心配かけたくなくって、詳しいことはあたしも話してなかったの。
 あの時のレナちゃんの怒りはまだ胸に突き刺さってて、気が重かったんだけれど、なにか嫌な胸騒ぎがしてね、気力を振り絞ってアパートに行ってみた。
 部屋は真っ暗で、ノックしてもなんの返事もなかった。ドアを前にすると、「顔も見たないわ!」ていうレナちゃんの声が甦ってね、いたたまれなくなって、ぐずぐず迷いながら、そのまま帰りかけたの。
 その時だった。「ミカちゃん、ママをたすけて!」って、不思議な声が、はっきり頭の中で響いたの。
 迷いもなにも振り切って、近くにあった花壇からレンガを引き抜いて、キッチンの窓ガラスを割って、鍵をあけて部屋に入り込んだ。
 狭いキッチンの板の間に、ジャンバー着たままのレナちゃんが倒れてた。「レナちゃん!」って名前を呼びながら、助け起こそうとすると、頭は燃えるように熱いのに、手がね……身体中が、氷みたいに冷え切っているの。
 優希は、ベビーベッドに寝かされたままで、こちらもひどい熱で、真っ赤な顔して「はっはっ」て、苦しそうに息してた。
 しゃがみ込んでバッグから携帯取り出して、救急車呼ぼうとしたら、レナちゃんが何か言おうとしてるの。耳を近づけたら「ウチ、保健はいってへんから、あかん……」って。「バカ!」って叫んで。すぐに119番した。
 左手で優希をだっこしながら、右手でレナちゃんの背中をさすってあげてた。あたし……何もできなくて、ただ二人が良くなりますようにって、お祈りすることしかできなくて……

 それからのことは、あまり覚えてないの。救急車が来て、病院に着いて、二人と一緒にいたかったのに、出ていて下さいって言われて、青白い病院の通路で一人で座ってた。
 おばあちゃんに電話しなくちゃいけなかったんだけど、できなかった……。あたし、レナちゃんにひどいことして、怒られちゃうと思ってね、電話できなかったの。
 先生が説明してた。「お子さんは熱は高いですが安定しているので、心配ありません。ただ、お母さんの方は、インフルエンザの合併症で、肺炎を併発していて、危険な状態です。抵抗力のない状態で、ウイルスに感染してしまったようで。身体が極度に衰弱していて、おそらく……一月近く、ほとんど何も食べてなかったんじゃないでしょうか……」

 病室で、吸入マスクをして、点滴を受けているレナちゃんの横で、あたしずっと彼女の手を握り締めてた。穏やかな、とても綺麗なレナちゃんの横顔、あたしずっと眺めてた。
「ミカちゃん」って呼ぶ声ではっと目が覚めた。暗い夜があけて、柔らかい朝の光で病室は明るかった。
「ミカちゃん、めいわくかけてごめんね」って、いつの間にかマスクを外したレナちゃんが言ってた。
「ミカちゃん、ゆきを……ゆきのこと、たのむね……」
「レナちゃん、ほら、優希はここにちゃんといるよ」ベビーベッドを引き寄せながら、あたしは言った。
「レナちゃん、優希のことは心配しないで、まずは自分がよくなることだけ考えて! レナちゃん、お願いだから、元気になって……レナちゃん、お願いだから……」
 安心したのか、レナちゃん、ふっと笑って、眼を閉じて……

 一度言葉を切って、美佳は痛みに堪えるような固い表情のまま、桜花を見上げる。
「後で携帯の履歴を調べてみたら、倒れる前の数日間、派遣でティッシュ配りのバイトをしてたみたいなの。優希は無認可の保育所に預けられていて、そこで二人一緒に、インフルエンザをもらっちゃったみたい。あの前日の仕事終わりに、事務所で倒れてしばらく動けなくて、救急車呼ぼうとしたら、レナちゃん大丈夫ですからって、起きて帰っていったって。なんとかアパートに帰り着いて、そのまま丸一日以上、あのキッチンの冷たい床に倒れてたのよ……」
 黒目勝ちの瞳から涙がこぼれ、生き物のように白い頬をすべり落ちる。
「あたしが、もっと親身になって寄り添ってあげてたら、あんなことにはならなかった。あたしが、彼女の気持ちを踏みにじるようなことしなければ、あんなことにはならなかった。あれは、あたしのせいなの……。この後悔は、もう一生消えない……」
 君のせいやないよ……と言ってやりたかったが、美佳のいまだ生々しい傷口を目の当りにして、安易な慰めの言葉をかけることはできなかった。
「優希のお父さんは?」
「仁……っていう名前だけ聞いてる。詳しくは教えてくれなかったんだけど、口ぶりから、どうも正業に就いてる人じゃなかったみたい。でもね、お互い決して、いいかげんな気持ちじゃなかったって。ちゃんと自分のことを愛してくれてたって、レナちゃん言ってた」
「優希が産まれたことは知ってんのかな?」
「分からない……。レナちゃんは言ってないって。あの人今大事な時やし、迷惑かかるから……って」
「迷惑って」
「そうよね、ひどいよね。二人にしか分からない事情はあったみたいだけど」
「喫茶店でのトラブルって? 彼女、簡単に仕事投げ出すような子とは思われへんのやけど」
「うん……」しばらく下を向いて思案していたが、やがて顔を上げると、バッグから分厚く膨らんだ封筒を取り出して、健吾に差し出す。「ミカちゃんへ」と書かれた封筒の中には、可愛い字でびっしりと埋められた数十枚はありそうな便箋が収められている。
「これ、読んでみて。レナちゃん、あたしに手紙を書いてくれてたの。ここに、全部書いてあるから」


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