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春は遠き夢の果てに (五)

     五

 すれ違い困難な道幅が続き、合っているのか不安になるくらい、長くて薄暗い峠道を抜けると、眼下に一気に展望が開けた。
「うわあ……。ここ、すごいねえ……」思わずひとりごちる健吾は、ビッツのスピードを落として景色を見遣る。
 ほとんど一望できる盆地に田畑が広がり、点在する四十件ほどの民家の多くは萱葺き屋根のままであり、“日本の原風景”という言葉だけでは括れない痛いくらいの郷愁が、胸裡に満ちてくる。
 眼を惹くのは、集落の中ほどを流れる川べりに植えられた桜並木で、淡桃色ににじむラインは、ゆったりとした曲線を描いて、濃緑の山際まで続いている。
 最後のカーブを抜けて、県道は集落に入る。起伏のある地面をそのまま利用して田畑が作られているため、変化に富んだ眺めが楽しめる。
 川を渡ってしばらく進むと、左手の小高い丘陵の上に、ぽつんと建つ一軒家が見えてくる。
「あ、あそこかな、おばあさん家」
「そう。分かるの?」
「うん。なんでやろ、一発で分かったわ」
 建物の形そのものは他と何も変わらないのに、不思議とその場所だけ、ふわっと浮き上がるような陽気を感じる。もちろん、事前に聞いていた静枝の道案内が的確だったこともあるのだが、決してそれだけではないように思える。
 染み入るような黄色が眩しい菜の花畑の間を左折し、なだらかな坂を畑二段分くらい上った場所に、その家は在った。庭に出ていたらしい静枝が、目敏くこちらを認めて、ゆっくり手を振ってくれている。それは、人外の精霊を想わせるくらいに、美しくもどこか儚い佇まいで、健吾はちょっと泣きそうになってしまう。
 敷地はかなり広く、車を数台停められるスペースは充分にあったが、美佳の言葉に従って、家のすぐ前までビッツを進める。
「なんやあんたら、一緒に来たんかいな。サプライズしよ思てましたのに、バレてしもてた?」
「ちがうんですよ。出町柳のデルタんとこでばったり! なんやちっさい生きモンが飛びかかってきよったと思たらこの子でね、もうびっくりですわ」
「まあまあ、ほんとの意味でのサプライズやったのね」
「静枝さん、改めまして」健吾は、ゆっくりと車を降りると、まっすぐ静枝に向き合う。「今日はお招きいただいて、ありがとうございます。おれ、ほんとに楽しみにしてきました」
「こちらこそ。遠いとこ、ようお越し下さいました。ご自分の家や思て、ゆっくりしていって下さいね」静枝も、ぺこりと一揖する。
「いやあ、それにしても、めっちゃええとこですね!」
「そうでしょう。ええとこなのよ」
 村はずれの丘の上にあるこの場所からは、どこを切り取っても絵になりそうなのどかな田園風景が、ほぼ180度のパノラマで楽しめる。今の時季は手前の菜の花ごしに、眼下の満開の桜並木も眺めることができ、最高のお花見スポットとして周知されていないのが不思議なくらいである。
「今日はええお花祭りになりそうね。後であの桜並木の下で、みんなでお花見しましょうね。さあ、長い運転疲れたでしょう。お家ぃ上がってゆっくりして下さい」
 静枝は笑顔で、一行を家の方へと誘う。
「美佳、あんたもおかえり」
 ぎこちない彼女の様子から、何かあったことはすぐに察していたようで、それ以上何も問い掛けずに、労るように腰に掌を当てて、寄り添って歩いてゆく。
「なあばあちゃん、にいちゃんな、トンビさんにパンとられはってんで!」
「そうなん。それは災難どしたなあ」
「ほんでな、またかいにいくのにおかねなかったからな、かあちゃんにかりはってんで」
「こらゆき、いらんこと言わんでええからな」
「ほんでな、にいちゃんな、かわにもおちはってんで~」
「それはそれはとんだ災難で。でも優希、もしかしたらそれはあんたが急に飛び掛ったせいと違いますのか?」
「てへん」
「やっぱりそうですのんか。なあ優希、ちゃんと健吾にいちゃんに謝ったんか?」
「あやまってへ~ん」
「あかんやないの。ちゃんと謝りなさい」
「ごめ~んねっ」
「これっ! そんな謝り方!」
「なあばあちゃん、ゆきちゃんちょっと、おやまであそんでくるな!」弾けるような笑顔でそう言うと、返事も待たずに家の後方に広がる野原に向かってダッシュで走り出す。
「これっ、あんたはもう……。お昼には帰ってくるんやで~!」
「なんか走り去ってしまいましたけど」
「ごめんなさいねえ、健吾さん。日頃の抑圧から解放されるのか知らんけれど、ここきたらいっつもああなんよ。ほっといたら何時までも野山を走り回ってるの」
「はは、抑圧ですか。あれ? この看板……」庭の入り口に立てられてた丸太に、「春」とだけ彫り込まれた看板がぶら提げてある。
「お店か何かしてはるんですか?」
「ううん、特にお店はしてないんですけどね」
「ほな、この看板は?」
「ふふ、これはね、『いつでも誰でも来て下さい』っていう、意思表明なの」
「ええっ、なんの為に? 食事とかですか?」
「ええ、お食事でも、休憩でも、お泊りでも、長期滞在でもよ」
「え?『誰でも』ってことは、おれでもええんですか?」
「もちろんやないの! ここ、来たい?」
「めちゃ来たいっす! おれ、なんでも手伝いますんで」
「いや、ほんまに? これからの時季、どれだけ人手あっても足らへんから、たすかりますわぁ」
「あは。甲斐性はないんですけど、器用貧乏なんできっとお役に立ちますよ」
「ねえ、健吾さん」ちょっと表情を厳しくして、静枝は健吾を見詰める。
「男の価値はね、決して、甲斐性とか、稼ぎとか、そんなことでは決まらへんの。どれだけの優しさを胸に秘めてるか、そしてそれを、どれだけ人に分け与えられるか。健吾さん、あなたが隠してる資質はね、類いまれなくらい貴重なものなの。世界の宝物なのよ。決して自分を卑下しないで! あたしからのお願い、ね」



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