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春は遠き夢の果てに (十六)

     十六

 降り注ぐ春の陽光を受けて、満開に咲き誇る桜花はまぶしいくらいに白く輝き、抜ける様な蒼穹と鮮やかなコントラストをなしている。
「花神さまが喜んではるみたいねえ」
 言葉に呼応するようにふわっと風が起こり、可憐な花びらが数枚、静枝の白銀の髪の毛に舞い落ちる。
「このお酒、なんて美味しいのかしら」
 桃色の杯を手にした静枝が、何度目かの感嘆を漏らす。
「ありがとうございます。祖父も本望やと思いますよ」
 軽い酔いに顔を赤く染めた健吾が、嬉しそうに眼を細める。
「蔵のことにはほとんど口出ししなかったじいさんが、最後に言うたわがままですからね。仕上がった時には、それは嬉しそうでしたよ。じいちゃん、どんな想いでこれ飲んでよったんかなあ」
「あの日、天山で、建造さんと約束してたことがあるの」
 そう言って、静枝は乙女のような微笑みを見せる。
「天山からの眺めに感動するあたしに、“一目千本”言われるもっとすごい場所がある。次はぜひそちらもご案内しますからね……って」
「それ、きっと、白坂……こないだ最後にご案内した場所やと思います」
「そうね。健吾さん、あなたがおじいさんの代わりに、その約束を果たしてくれたのね」
「……そうやったんですね」
「ありがとうね、健吾さん」
 にっこり頷いてそう言うと、静枝はもう一度ゆっくり、杯を口にはこぶ。
「ああ、おいしい……」
 人の良心と地の恵みが凝縮されたようなその美しい酒を、全身全霊をもって味わう。


 心地良いまどろみから、ふと目覚める。
 少しぼんやりしたまま、周囲を見渡す。記憶がぼやけているが、頭上を占める満開の桜を目にして、そうだ、お花見をしていたんだと思う。
 巨大な桜の幹にもたれて、まどろんでいたようであり。それは、信じられないくらい巨きな樹で、視界のはるか先まで枝は伸び、紫がかった薄紅色の桜花は、それ自体がきらめく微光を発しながら、霞のように満天をおおっている。少し違和感を覚えるが、あまりに美しく、居心地が良いので、陶然としたまま、再びまどろみに落ちようとする。
「静枝さん」
 呼びかける声に、意識を引き戻される。
「静枝さん、よう寝てはりましたねえ」
 好ましい男性の声音に、懐かしさを感じる。ゆっくりふり向くと、人懐っこい瞳に微笑みをたたえて、その人が自分を見詰めている。
「健吾さん?」
「おやおや、あんな若輩者と間違えられるやなんて、いささか心外ですなあ」
「まあ、健造さん?!」
「静枝さん、お久し振りです」
 ひょろっと丈高い体躯に少年のような含羞を滲ませながら、その人が笑っている。
「健造さん、だって、あなた、昔とぜんぜん変ってはらへんし……」
「それは静枝さんも。ほら!」
 促されて、自分の姿を確認してみる。年相応の皺に埋もれていた両手も、ほっぺも、身体も、弾力のある瑞々しさを取り戻している。いつの間にか、一番のお気に入りだった桃色のカーディガンを着用しており、艶やかな黒髪をまとめたお下げが、顔の動きによって揺れるのも分かる。
「まあ面白い。なんの魔法かしら」
「面白いですなあ。人生まっこと、夢の如しですなあ」
 ゆったりとした麻の背広を着こなした健造の姿はあの頃のままで、屈託のないその物腰と、情味溢れる細められた瞳を、どれだけ自分が愛していたのか、当時の感情が鮮やかに甦ってくる。その想いは、あまりに幼く、未熟ではあるが、その分、熱烈で、一途であり、今や取り戻すべくもない若き自分の一心なひた向きさを、神秘的な多重的視点から、たまらなく愛しく感じる。
「あたし、お花見してたんです。大切なたいせつな人たちと……」
「美佳ちゃんに、優希に、うちの健吾ですな」
「そうそう、美佳に、優希に、健吾さん」
「なんて気持ちの良い若者たちなんでしょうなあ」
 長い夢から目覚めつつある自分をなるべく混乱させまいとする、彼の思い遣りが伝わってくる。
「はい。健吾さん、なんて良い青年なんでしょう。あたし、あの子のこと大好き。さすがあなたのお孫さんね」
「ええ、まあ、現界で生きてゆくにはちょっと生真面目すぎるというか、純粋すぎるところがあって、心配してたんですけれどね。やっと、心底惚れぬく価値のある女性に出逢えたから、あいつも大丈夫でしょう」
 意識の焦点を合わせると、世界が二重映しになり、“下の階層”でくつろぐ彼等の様子がはっきり見て取れる。草地に寝そべってうたた寝している健吾の額に、美佳がこっそりキスする様子を、微笑ましく眺める。
「静枝さん、今日はね、お迎えに上がったんですよ」
 控え目ながらも、断固とした意志をもって、健造がそう告げる。
「お迎え、ですか……」少し伏し目がちになって、静枝は応える。
「健造さん、ありがたいけれど、あなたとは行けないの……。あたしね、幸せやったんです、とっても……。だから、申しわけないけれど、あなたとは……」
「ははは、そう言わはる思て、ちゃんと連れてきてるんですよ」いたずらっぽくニヤッと笑うと、横を向いて呼ばわる。「おーい、みっちゃん!」
「静枝さん……」
「まあ、三男さん!!」
 生涯を寄り添った三男が、幹の影からふっと現れる。しっかりと手を握り合って、再会を喜ぶ。面白いことに、三男は好々爺然とした老境の姿で現れている。
「おいおい思い出しはるやろけど、ぼくらかなり以前からのツレ同士でね。秘められた約束があったんですよ」
 桜花とも雲ともつかない薄紫の天上の一点から光が差し込み、見る間に大きくなってゆく。垣間見える光の世界は、多様なパステルカラーの色彩がたゆとう、えもいわれぬ光輝に満ちており、少し心を向けるだけで魂ごと揺さぶられるほどの郷愁を感じる。
「ねえ、健造さん、三男さん、もうちょっと……もうちょっとだけ、あの子達と一緒に居たらだめかしら……」
“大いなる自己”に回帰してしまうと、静枝としてのパーソナリティが備える、不完全な、しかし愛すべき活き活きとした情動を味わえなくなってしまうことも、目覚めつつある今の彼女には分かってしまう。
「どうぞ、心ゆくまで。ぼくらも久し振りに、現界のお花見でも楽しんでますから……」



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