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春は遠き夢の果てに (十四)

     十四

 読み終わってからもしばらく、健吾は両腕に顔を埋めて泣いていた。
 やがて、思い切ったように半身を起こすと、右腕でゆっくりと涙を拭う。
「この、嶽野ってやつ……」
 そうつぶやく健吾は、穏和な彼がそれまで見せたことのない、ギラギラする不穏な決意みたいなものを、両眼に滲ませている。
「あたしも、こいつだけは許せなくて、一言言ってやりたくて、レナちゃん死んじゃったよ、満足? って、言ってやりたくて、気持ちの整理がつかないまま、喫茶店に行ってみたの……」
「うん」
「なにも言えなかった……。あたし、なにも言えなかった……。憎くて、あいつのことが憎すぎて、厨房でヘラヘラ笑ってるあいつを見ながら、悔しくて、内臓が千切れそうなくらい悔しいのに、あたし、ただ泣く事しかできなかった」
「うん」
「顔見知りのウエイトレスさんが気づいてくれてね、外でちょっと話したの。あいつ、レナちゃんだけじゃなくって、他の子にもひどいことしててね、めちゃ嫌われてた。その後しばらくして、詳細は分からないんだけど、茶店は辞めて、以来行方不明らしい。きっと、なんらかの報いは受けてるんじゃないかしら。そう思わないと、やってられない。復讐を考える価値もない、ちっぽけな男なのよ」
 ふっと息をつくと、美佳は手を伸ばして、健吾から分厚い便箋の束を受け取る。
「この手紙、キッチンのテーブルに置かれたままになってたの。レナちゃん、手紙を書き上げてからもきっと、悩んでたんだと思うのよ。優希と離れたくなくて。やっぱりどうしても、優希と居たくって。なんで……なんでもっと甘えてくれなかったのよ!! 二人のためなら、あたし何だってしたのに」
 再びこぼれそうになる涙を、美佳は顔を振って、無理矢理押し留める。
「これで話しはおしまい。あたしのせいだってこと、よく分かったでしょ? きっとレナちゃん、あたしのこと嫌いだったのよ。いけ好かない胸のうち、見透かされてたのね」
 返す言葉がみつからず、健吾はシダレザクラを見上げる。
 地面に着きそうなほど、長く伸びたしなやかな枝は、艶やかな小ぶりの花弁をたっぷりと身に纏い、音もなくゆるやかにたゆとうている。
 不意に、桜の上部から、青い放射状の光が射しているのに気付く。陽光が桜を透かして青に見えている訳ではないようで、淡いヴェールのように波打つその光は、まるで意図しているかのように、ベンチに座る二人に降り注いでいる。
「もしかして、レナちゃん、この場所好きやった?」
「……うん。一緒にお花見もしたし、桜の時季以外にも、よく一人で来てたみたいだけど、なんで?」
「いや、なんとなくやけど」
 不思議な青いヴェールに心を合わせていると、どうしようもなくやるせない思いがふっと和らぎ、かわりに、ほのかな寿ぎの気持ちが胸に満ちる。さっきとは別種の情動が起こり、瞼がじんわり熱くなるのを感じる。
「優希っていう名前は?」
「レナちゃんが考えた。ウチらのやさしいきぼうになりますように……って」
「ええ名前やなあ。名前通りの子やもんな」
「……うん。そうよね」
「なあ、美佳ちゃん」健吾は微笑むと、まっすぐ美佳を見詰める。
「たしかに、君のやり方にはいたらんとこもあったかも知れんし、もっと良いやり方もあったんかも知れん。でもな、俺は、君のやったことの全部を、肯定するよ。言ったこと、思ったこと、全部ひっくるめてね。そんで、それはきっと……いや、絶対」健吾は、言葉に力を込める。「レナちゃんも同じやと思うねん。ただの気休め、言うてるように思うかな?」
 美佳はうつむいて、少し考えてから、軽く首を振る。
「美佳ちゃん、一つ約束してくれへんかな?」
「なに?」
「全部一人で背負わんといて。君の、後悔や悲しみを、俺にもちょっと背負わせてほしいねん。君の痛みを、肩代わりすることはできひんけど、一緒に背負っていくことはできるやろ? なあ、君が優希を育ててるのって、ただの義務感から?」
「……違う。ちがう!!」
「うん、そやろ? おれも同じや。優希のことも、レナちゃんのことも、そんで君のことも、おれ、愛しいてしょうがないねん。だからさあ、全部一人で背負わんといて。あの子を育てる手伝い、俺にもさせて」
「……わかった。約束する」
 黒い瞳から涙が溢れ、形の良い鼻を伝って、ぽとぽとと膝にこぼれ落ちる。
「ねえ、健吾」
「ん?」
「どうもありがとう」
「うん」
 力強く頷くと、健吾は不器用に、美佳の繊い身体を抱き締める。無骨な掌の温かさを感じながら、美佳は健吾の右肩に頭をあずけ、幼児のようにひくひくと身体を震わせ、泣き出してしまう。
 シダレザクラの桃色の下で、ぎこちなく寄り添う二人を、微かにきらめく青い光のヴェールが優しく包み込んでいる。

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