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春は遠き夢の果てに (一)
第二部 春は遠き夢の果てに
一
疎水沿いに植えられた桜並木の下を、優希と一緒に歩いてゆく。
花の盛りは過ぎてしまったものの、昨夜の雨にもよく耐えて、頭上では雨滴に濡れたままのほとんど白に近い桜色の花びらが、陽光を透かしてきらきらと輝いている。
春の嵐さながらの昨夜の驟雨も、心配していたほどの花散らしの雨にはならなかったようで、まだまだ見ごたえのある桜花の房は、樹々のあちこちに残っている。
桜並木を抜けるとすぐに、小さな橋が見えてくる。
「なあかあちゃん、ゆきちゃん、おじぞうさんとこいってくるな」
言下に、繋いでいた右手を離して、優希はててて~と駆け出し、コマネズミみたいに素早くコンクリの階段を上って、橋を渡ってゆく。
「気をつけなさいよ~」優希の後姿に声をかけつつ、美佳もゆっくりと、幅2mほどの橋を歩いてゆく。
優希の白いトレーナーを目の端でとらえながら、水路の中ほどで歩を止めて、北側に広がる風景を眺める。
明治以降に造成された琵琶湖疎水は、実利的にも景観的にも、京都市民の暮らしの一部としてすっかりとけ込んでいる。
石造りで水路が造られている蹴上周辺とは違って、ほぼ南端にあたるこの辺りは直線的なコンクリ造りであまり見栄えは良くないが、ゆったり流れる深緑色の水面を眺めていると、なぜか心が落ち着き、優希と一緒によく水べりを散策する。
生まれ育った東京の郊外を想わせるからか、暮らしの中に水路がある風景を一目で気に入り、アパートも疎水を見下ろせる所に決めてしまった。とくに優希が来てからは少し手狭ではあるものの、仕事場も京阪電車で数駅だしいろいろな面で便利だし、結局上京してからずっと此処に住み続けている。
すぐ左手に、桜の大木が見えている。家並が途切れた細長い草地から、流れに向かって斜めに黒い幹は伸び、桜花を纏った枝は柵を越えて数メートルもせり出している。
人工的な景観を和らげようという努力なのか、疎水沿いのあちこちに桜が植えられている。とくにこの桜は立派で、満開時には遠くからでも一目で分かるほど大量の花を咲かせてくれる。根元にはいくつかベンチも置かれ、つい先日もサンドイッチを作って、優希とお花見を楽しんだばかりである。
橋を渡りきって、桜の大木に向かう。数本ある桜の真ん中辺りにお地蔵さんが祀られていて、優希はちょっと首をかしげて、やわらかい微笑みを浮かべた石仏さんに向き合っている。
「ごあいさつできたん?」
「うん……」
「なんか言うてはった?」
「ん? うん」
「そ。じゃあ行こうか。おばあちゃん、待ってるしね」
まだ少し心残りがありそうな優希の手をとって、水べりの小道を歩いてゆく。赤い自転車に乗った保育園のママ友とすれ違い、笑って手を振り合う。
墨染駅から緑のツートンカラーの京阪電車に乗って北へ。しばらく疎水沿いを進み、伏見稲荷を過ぎて、紅葉で有名な東福寺から先は地下を進む形になる。
昔はこの区間も地下道ではなく、終点も三条駅だったらしく、路面電車に乗り換えて動物園に行った記憶が、微かに残っている。三条駅前におわす、決死の覚悟で土下座をするおじさんの銅像が幼児の自分のツボにはまったようで、大笑いしていた事もなんとなく覚えている。
現在の終点、出町柳駅で降りて、叡山電車への乗換え口から地上に出る。
駅横のバス停で時間を確認してから、いつものお楽しみコース、駅の斜め向かいにある柳月堂というパン屋さんに入る。優希はこの店のレーズンくるみパンが大好物で、機会があると必ず買って帰ることにしている。
木製の棚にはお目当てのパンはなく、焼きあがり時間を尋ねようとした途端、「レーズンくるみパン焼き上がりましたよ~」と、香しいパンを一杯に乗せたプレートを両手で持って、調理場から紺色のスカーフを巻いたお姉さんが笑顔で現れる。
「やた~! レーズンくるみパンきた~!!」
「あんた、“持ってる”わねえ……。どんなグッドタイミングなのよ」
苦笑しつつ、まだほかほかと暖かい褐色のパンをトレイに乗せてゆく。最近すっかり食が細くなった祖母の分も、少し考えてから買うことにする。
バス停横の横断歩道を渡って河合橋に至り、橋の中ほどから北方を眺めつつ、大きく深呼吸する。
北山の山並みをバックに、高野川の東岸に植えられた桜並木が、かなり遠くまで見渡せる。人もまばらで情緒もある、お気に入りのお花見スポットの一つであり、ほとんど果てがないと思えるくらい北まで桜並木は続いていて、丸一日歩いても味わいつくせそうにない。
この辺りは、東方から流れる「高野川」と、西方から流れる「加茂川」の合流地点であり、二川合流以南が「鴨川」となる。パワースポットとしても有名な下鴨神社はこの三角州の部分にあり、合流点はちょっとした公園みたいに整備され、“デルタ”と呼ばれて府民の良い憩いの場になっている。
雰囲気をゆっくり楽しみながらデルタに至り、ちょうど空いていたベンチに腰を下ろす。さっそく柳月堂の小袋からパンとコーヒー牛乳を取り出しつつ、ふと、健吾の淹れたコーヒーは美味しかったなと想う。「優希が肩車して欲しがってるんだけど!」なんて、呼び出してみようかと半ば本気で考える。
「なあかあちゃん、カメさんわたってきていい?」
「カメさん? いいけど、パン食べないの?」
「あとでたべる!」
河原のちょうど二川合流部分に飛び石が渡してあり、子供でも歩いて渡れるようになっている。中には亀や鳥の形をしたカワイイ石もあり、人気アニメに登場したりで一部の間では有名スポットになっているらしい。
「今せっかくほかほかなのに。かあちゃん先に食べとくからね」
「ええで!」
「あんまりゆっくりできないからね!」
最後の言葉には返事をせず、優希は斜面を駆け下りてゆく。ふっと微笑んで、美佳はパンの暖かさを腕に感じながら、コーヒー牛乳の甘さを味わう。
風が起こり、かすかな花の香りを伝えてくる。ほんの幼児の頃にも同じ香りを味わったような気がして、記憶をたぐるも、おぼろな色彩が浮かぶだけで何も想い出せない……
「のわっ!」っという叫び声に次いで、バシャ―ンという盛大な水飛沫の音が聞こえる。
一気に現実に引き戻され、音が聞こえた河原に向かって斜面を駆け下る。
誰かが川に落ちたらしい。川の中の人物が、子供を持ち上げている。優希だ!
「ゆき! ゆきっ!」叫びながら飛び石を渡る。
「ああ、これは美佳さん、下からどうも失礼いたします」
聞き覚えのあるのんびりした声音に、緊迫感はしぼんで大きな「?」マークが脳裡に飛び出る。
「え? あれ? 健吾さん?!」
けたけたと嬉しそうに笑い続ける優希を両腕で持ち上げながら、水中に腰まで浸かった健吾が、なんともいえない表情で美佳を見上げている。
「ちょっ……なにしてるの?」
「いや、カメさんの上でぼ~っと川の流れ眺めてたらさあ、いきなり何かに飛びかかられてな、バランスくずして落ちてもうて。東山の猿かなんかかって思たら、なんや見たことある幼児でな……って、こら、ゆきぼう、おまえ、笑いすぎやし」
「てへん」
「ゆきっ! あんたはまた!……って、あそうか、この子にはこの子なりの行動原理があるから、頭ごなしに怒っちゃダメなんでしたっけ?」
「いやいや、ここはキツ~く怒っといたって。もうほんま、せっかくの一張羅がびしょ濡れやし……」
いかにも情けなさそうな健吾の声と表情を受けて、思わず美佳も笑い出してしまう。
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