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春は遠き夢の果てに (二)

     二

「それにしてもさあ、ゆきぃ、いきなり人に飛びかかるクセ、たいがいにせんとあかんで」
 そう言って、大きな掌で、優希の栗色の頭をがっしりつかんでみせる。夢中でレーズンくるみパンをほお張る優希は、クセなのか、パンを脚の間に隠すように持って、かじる時だけ口にはこぶようにしている。
「誰にでもするワケじゃないのよ。あなたにだけね。きっと良いリアクションするから面白いのよ。愛情表現の一部なんじゃない?」
 くすくす笑って、健吾にも一つパンを手渡しながら美佳が言う。
「味をしめられたか。ほなしゃあないか」
 濡れてしまったお気に入りのシャツを脱いだ健吾は、白いTシャツ姿になっている。ベージュのパンツは代えようがないので、車の陰で簡単に絞っただけでそのまま履いている。
「で、今日はなに? ただ水辺でぼ~っとしにきたワケじゃないんでしょ?」
「いや、君のおばあちゃんとデート」
「え? マジで? なんでよ?! 誘ってくれれば良いのに」
「うん、ちょっと仔細があってね……。びっくりするような不思議なご縁がありまして……」
「ふうん。何かしら、不思議なご縁って……。それって、内緒にしなきゃいけないこと?」
「うううん、ぜんぜん。君にもおいおい話そうと思ってたんやけど、まず静枝さんに大切な用件がありまして。で、君らは?」
「あたしたちもおばあちゃん家に行くのよ。あの辺り、桜が満開だからお花見するのと、あと、実は今日ね、この子の誕生日なのよ」
「マジでか? ゆき! それはおめでとう! 四月八日って、お釈迦様と同じバースデーやん!」
「そうなのそうなの。で、お花見かねたお誕生会でね、こないだのお礼に健吾さんも誘おうかって言ったら、今回は内輪だけで話したいこともあるから、だって……。もうっ、おばあちゃんったら! 裏であれこれ仕組んで喜んでたのね!」
「なんも言うてなかったんや」
「何も言ってないわよ。あの人、ああ見えて、サプライズとかするの大好きなのよ」
「なんとなく分かる。君に似た目元が“黒い静枝”の存在を物語ってるし」
「あ、ごめん、言い忘れてたけど、ここで食べ物持つ時、気をつけないとね……」
「ばふっ!」言下に、健吾が声にならない声を上げる。
 右手に衝撃を感じて、何が起こったのか分からないままに確認してみると、持っていたはずのレーズンくるみパンがなくなっている。はっと気付いて視線を前にやる。青空をバックに、鉤爪にパンをしっかり掴んだ大きなトンビが、悠然と飛翔してゆくのが目に入る
「オレのレーズンくるみパン!!」
「あああ、こんな場所でいかにも『どうぞ』とばかりに高く持ち上げてるんだもん。それはトンビさんも喜んでいただいてくわよ」
「ええ~っ? にいちゃんパン、トンビさんにとられはったん?!」大喜びの優希はけたけたと笑い声を上げる。「あほぅやなあ。ゆきちゃんはな、ちゃんとトンビさんにみえへんようにかくしてたべててんで」
「ほんまあほやなあ。人のこと“黒い”とか言うから、きっとバチが当たったのね」
「オレのレーズンくるみパン……」
 ちょうど正面に見えている大文字山の深い緑の中に、トンビはどこか得意げに悠々と消えてゆく。
「もうないからね。これおばあちゃんの分だから」
「いや、オレ、口の中がもうすっかりレーズンくるみパンやねんけど……」
「買ってくれば? 人気メニューだからもう売り切れてるかも知れないけど」
「えぁ……やっぱええわ。さっき、サイフとか車ん中に置いてきてもうたし」
「もうっ、パン代くらい貸したげるから!」そう言って、ちょっと考えてからクリーム色の長財布をそのまま健吾に手渡す。「ちゃんと返してよね。この子の教育上、お金の貸し借りはきっちりしときたいから」
「こわいこわい。じゃあ、遠慮なく。利子つけてお返し致しますんで……」
「またパンかいにいくの? ゆきちゃんもいく!!」
「おう、一緒にいこか。お金ぎょうさん入ってるやろから、なんでも好きなもん好きなだけ買うたるわ」
「やた~!」
「こらっ!」
 仲良く手を繋いで橋を渡ってゆく二人を、ベンチに座って見送りながら、美佳はくすくすと笑い出し、しまいには両手で顔を覆ってひくひくと身体を痙攣させるくらい、本格的な笑いの発作に包まれてしまう。

 ボディのあちこちに擦りキズがある薄灰色のトヨタビッツが、丸っこい車体を揺らしながら、曲がりくねった坂道を登ってゆく。古びた1000ccのエンジンには、三人乗せての登坂はかなりの負担のようだが、それでも機嫌を損ねることなく着実に進んでゆく。
「え? もらったの?」
「うん、もろてん。ツレが車買い換える時に、こいつ古すぎて下取りも値段付かへんくてね、それやったら知り合いに使ってもらう方が嬉しいからって。見た目はボロいけど、まだまだぜんぜん走りよるし、廃車にするのは可哀想やよね」
 そう言って、樹脂製のハンドルをとんとんと叩いて見せる。
「あたしも免許持ってるんだけど、ほぼペーパーね。車欲しいと思った時もあったけど、維持費も高くついちゃうし」
「街中に住んでたら、便利やし、いらんよね」
「街中で暮らす分にはね。でもねえ、おばあちゃん家行くの、一苦労なのよー。バスの便もあんまりないしね」
 静枝の住む花城(はなしろ)までは、京都市内から車で一時間ほどかかる。かつて若狭から京都までの物流ルートであった“鯖街道”を東に折れ、さらに山間部へと分け入った先にこの里はある。かつては都から遠く離れた秘境であり、平家の落人伝説も残っていたりする。
 道は峠を越して下り坂になり、左曲がりの大きなカーブが迫る。
「よしゃ、またカーブ入るで~」
「はいは~い!」
 ワインディングロードの横Gが面白いようで、横揺れを感じる曲がり道を抜けるたびに、優希はきゃははと声を上げて喜んでいる。
 姪のほのかを乗せる為なのか、簡易のチャイルドシートが設置済みであり、優希も指定席とばかりにご機嫌で鎮座している。健吾と話もしたかったので、一人で後部座席に座らせてみたが、問題なくドライブを楽しんでくれているようだ。
「そや、ゆきちゃん、君のほんまの子ではないらしいね」
「……え?」
 たわいもない世間話をするような口調で、健吾がそう言った。
 全く想定外のことを言われて理解が追いつかず、一瞬頭が空白になる。まじまじと、健吾の横顔を見詰めてしまう。ゆっくりと、言葉の意味が頭に染み込んでくる。
「べつにママがいるねん……って、さっき……」
「止めて」
「え?」
「車止めて! 早く!!」
 美佳の剣幕に泡を食いながら、なんとか車一台分ほどの路肩スペースをみつけて急停車する健吾を、横目で睨みつける。さっと後部座席の優希の様子をうかがう。車窓の景色に見入っていたようではあるが、聞かれてしまった可能性はある。
「こっち来て!」
 素早く車を降りて、声が届かないほどに離れた木陰まで、健吾の腕を掴んで文字通り引きずってゆく。
「誰に聞いたの? おばあちゃん? 信じられない!」
 言葉は抑えているが、涙に濡れてぎらぎらと輝く黒瞳から、潜めた怒りの激しさが伝わってくる。
「誰にって……」
「まさか興信所で調べたとか言わないわよね。もうっ! 信じられない! あんなに不用意に……。あの子に聞かれてたらどうするのよ!」
「ちょっと待って。美佳ちゃん、ちょっと落ち着こう」
「あの子はあたしの子供として育ててきたの。今までも、これからも、ずっとそうするつもり。ほんとのことは、絶対あの子に悟られないように、今まで細心の注意を払ってきた。その気持ちがあなたに分かる?!」
「美佳ちゃん、落ち着いて、おれの話し聞いてくれへんかな」
「車降りるから。ここからはタクシーで行くわ。あなた、悪いけど今日は帰ってくれる?」
「ちょっ、待って」
「もう顔も見たくないの!!」
「あの子に聞いたんや!!」
「……えっ?」
 びりびりと痺れるくらいの大声が下腹に響く。言葉の意味を理解するにつれ、ショックがじわじわと全身に広がってゆく。
「あの子から、ゆきちゃんから聞いたんや。さっき、パン買いに行った時。『ゆきちゃん、かあちゃんのこどもちがうねんで。ほんとのママがいるねん』……って、にこにこしながら。秘密にしてたつもりか知らんけど、あの子、分かってるよ。分かってしもてるよ」

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