詩人にはアイデンティティがない
詩を書きたいと思って机に向かってもなかなか書けないことが多い。それが辛くて机から遠のいてしまうこともしばしばだが、ある時ふとしたきっかけで書けることがある。それでも自分で納得できる作品に出会えるのは稀で、基本的には「何とかそれっぽくなった」程度のものしか出てこない。
多くの詩人たちにとっても詩の訪れは似たようなところがあり、思うようになど書けないことが多いらしい。やはり詩と言うのは、何時間働いたらこれぐらいの成果が出るというようなわかりやすいものではないのだろう。詩の訪れを魚釣りに例える人もいるが、たしかに詩は個人の匙加減だけでできるものではなく、自分の外側からやってくるものであると言うイメージで捉えられがちだと思う。
このことと関連するが、詩人にはアイデンティティがないと言われる。詩人はこれが自分であると言うような確固たるものを持っていない。自分はこう言う人間だと確定しそうになるとそこから逃れていくようなところがあり、巫女やシャーマンに近いとも言われることがある。
このような文脈で引き合いに出されることがあるのが、早熟の天才アルチュール・ランボーの「私とは一個の他者である」と言う言葉である。詩人にとって「私」とは、他者の声と言うか、意味以前のざわめきというか、そう言う自分の外側から聞こえてくる言葉を受け入れるための器に過ぎないという意味だと思う。詩が降りてきたら小さな自分など明け渡してしまって、他者に成り代われるようなしなやかさが大切なのだ。だから詩人にアイデンティティはなくていい。ゆらぎ続ける不安定な自分でもかまわない。
一般的には、アイデンティティというものは確立することが大切だとされている。それは、アイデンティティという概念を発達段階の重要なものとして位置付けたエリク・H・エリクソンが言っていることである。青年期にありがちな「自分らしさとはなんだろう。」とか、「自分は何になりたいのだろう。」と言う問いに対して自分なりに答えを出して、「これが私だ。」というような確かな自己像を形成する。そうやって人は大人になっていく。自分の考えや価値観をしっかりと持った人間になる。
それはたしかに大人になるためには大切なことだ。しかし、詩を書くために大人である必要はない。自己と他者が未分化な子どもの方がいい詩を書くということが往々にしてある。また、これは自分の乏しい創作活動からでも言えることだが、自分が一般的な大人として持っている常識的な考えや価値観は詩を書くときに邪魔になることも多い。
そうではなく、大人になる上で無意識的に身につけてきた様々な価値観をうまく脱ぎ捨てることが、詩を書く上で大切なことなのかもしれない。たしかに自分のアイデンティティを確立するということは、生きていく上で大切なことには違いない。しかしそれはときに窮屈なものでもある。形成する過程の中で多くの凝り固まった思考を生み出したり、根拠のない「●●らしさ」のようなものにこだわったりする。
詩を書くことは、そのような諸々の鎖から自由になることだ。大人になる過程で身につけてしまった身に余る衣装を脱いで裸になること。あるいは自分自身から抜け出して他のものの生を生きることだ。そのためにはゆれ続ける自分を楽しんで生きられるようなある種の悠長さも必要なのかもしれない。
このように考えて、よい詩を書かねばと焦っている自分を少し反省した。何も書けないときは書けない悩みそれ自体もどこかで楽しみながら、まさに釣り人のように気長に待つ姿勢も大切にしていこうと思う。
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