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生と死

昨日猫ちゃんの写真を撮って、フォルダーに入れて、今まで撮った猫ちゃんの写真を見返してる時にぼそっと呟いた
「同じ顔一個もないな」
それは人間も同じで似たような表情っていうのはあれど全く同じ写真なんてひとつもないよね
そのぼやきを妹に聴かれてて「それが生き物やね〜」って言われた。その通りだと思う。歌の歌詞とかで「今日の君は今日しかいないから」みたいなの聞くけど本当にそうなんだよな。今日と同じ私はこの先二度と来ない。そしてそれは貴方も同じ、今日の貴方にはもう二度と会うことができない。生きてる証拠やね。

殺し屋を題材にした映画を見たことがあるんやけど、そこで1人の殺し屋がしじみを見るシーンがあって
「しじみは泡を吐くんだ。 人間もしじみみたいに、呼吸をすんのが泡で判りゃいいのにな、そうすりゃ、殺す方も殺される方も、生きてる意味ってのがもっと判るかもな」って呟くの。常に生と死の狭間にいるような仕事をしているからこそ「生きる」ということを考えるんやろうなとか思ったりね。呼吸って目では見えないけど体の動きとか空気の揺れとかで感じることは出来る。それって体温とかも同じ。相手もいなければ機会もあんまないし言ったことなかったんやけど私は体温というか人肌がすごく好き。手を繋ぐとかハグするとか触れて初めてあぁ生きてるんだなぁって思う。
ずっと猫ちゃんを抱きしめてたいし膝の上とかに乗せときたい。

産まれた瞬間から「生きる」を体験してる私たちにとってはあまりにも「生きる」ことが当たり前になりすぎている。だから冗談で「しね」とか言えたりする。どうせ言葉に発したくらいじゃ死なないって分かってるから。

おばあちゃんが亡くなってからものすごく生と死について考えるようになった。特に死。
死を目の当たりにした人にしか多分この感覚は分からないと思う。生きているのを確かめる方法って結構簡単かもしれへんねんけど、死を確かめるのってもう受け入れるしかないみたいなところがあった。
死装束を着せる時間。何をされも動かないその身体をただ見つめるしかなかった。「死んだように寝てる」違う。本当に死んでいるの。
最後に綺麗にしてあげようとおばあちゃんにお化粧をする時間。人とは思えないほど冷たくて白い唇。本当は触りたくなかった。死を触感で確かめたくなかった。生きてる時触れた感覚だけを残しておきたかった。でももう本当に最後だからって。大好きな人の最期。

冗談でも「しね」とか言わない方がいいよ。どうする本当に起こったら。死の恐怖味わったことないでしょ?
そんなことを思うようになったよね

「死にたい」も同じ。私も中学生くらいの時かな、全てが嫌になって死にたいって思った。母に言った。どうしてそんなことを言うの、私がどんな思いでってめちゃくちゃ怒られて泣かれて1週間くらい口聞いて貰えんかった。「あぁ愛されてんな私」って思えた。
親でも、友達でも、架空か現実かきっと私を好いてくれてる誰かでも、誰でもいい。ただ1人私を愛してくれてる誰かのために生きる人生。悪くないなと

生きてることがありがたいとかそんなんは思わんし産まれて来たこと自体は運やと思う。けど産まれてきた意味はあると思う。定期的に死を考えたり人との触れ合の中で生を感じたり結構大事かもしれんな。
この命が自然消滅していくまでは思う存分生きてやろうと思う。










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