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歴博講演会 第447回「陰陽道と伝承文化」を聴いてきた。

以前、国立歴史民俗博物館(歴博)@千葉県佐倉市で企画展示『陰陽師とは何者か: うらない、まじない、こよみをつくる』を見てきたよ!という記事を書きましたが、その続編です。
すでに展示は終わっていますので、関連講演の記録としてどうぞ。

歴博の一般向け定期講演会 第447回のテーマは『陰陽道と伝承文化』、講演者が陰陽道と民俗伝承研究で著名な小池 淳一先生とのことで、いそいそと参加してきました。
(ちなみにオンライン配信はない様子。リアルタイムでなくて良いので、配信もやらないかな)

小池先生は陰陽師展の企画プロジェクト代表を務めたほか、『新陰陽道叢書』シリーズ編集でも中心的な役割を果たされています。

この記事では、講演を聴いていて興味深く思ったこと・研究成果を(素人目線ではありますが)まとめてみました。個々の研究詳細は小池先生の論文や研究報告資料がありますので、そちらを御覧ください。



講演のあらまし

主に陰陽道と民間伝承の相互作用に関連した研究成果を紹介する講演でした。小池先生が自身の研究の流れをまとめたもの、というのが近いイメージ。
前半では下北半島で収集した古典民俗舞踊三番叟さんばそう』の起源に関する逸話と陰陽道との隠れた関係についての研究成果を紹介。
後半は各地の修験道の痕跡を調べることによって、陰陽道の逸話がどのように民間に広がっていったかを推定しています。

前半:下北半島の三番叟伝承と簠簋内伝

そもそもの始まりは、小池先生が民俗伝承の研究を始めて間もない頃、『下北半島の里修験と能舞』というテーマに取り組んだ時のこと。当地の伝統舞踊のひとつに『三番叟』という踊りがあるのですが、その起源説話が異様すぎて引っかかりを覚えたんだそうです。
青森県下北半島といえば恐山にイタコ、地蔵講など古き神秘をめぐる文化が色濃く残っている土地柄。古式を継ぐ民族伝統芸能も豊富で、その中に『三番叟』があります。

そもそも三番叟って何だ?
調べてみると、西日本を中心に広くハレの日に演じられる五穀豊穣の伝統舞踊とのこと。
私自身は残念ながら民俗舞踊も狂言バージョンも見たことはないのですが、伝統舞踊に多大な影響を与えたスタイルなんだそうです。

三番叟は日本全国で演じられていますので、下北半島に伝わっていること自体は不思議でないのですが、問題はその起源。
下北三番叟の始まりと題した昭和初期の古老からの聞き取りが講演で紹介されましたので、以下にあらすじを載せておきます。


『下北半島の三番叟の始まり』
三番という名の男が天竺の魔法使い(仙人?)に弟子入りし、三年間忠実に勤め上げた。真面目な働きぶりを認められ、三番は願いの叶う魔法の扇を授かって家に帰る。すると三年の間に妻は近所の坊さんと不倫の仲になっていた。二人は共謀して三番から魔法の扇を取り上げて殺し、骨を野山にばら撒いてしまう。
一方、天竺の魔法使いは弟子の異変を悟るやいなや来日し、野山に散らばった三番の骨を集め、人の形に組み立てていく。その際に顎だけは見つからなかったので、木彫で代用した。復活した三番は復讐に燃えて家に戻り、歌い踊りながら妻の首を絶った。この時の踊りが現在伝わっている三番叟である、というもの。


いやぁ、グロいですね?
三番叟の由来は全国各地で色々に語り継がれているそうですが、こんな異様なエピソードは類を見ないでしょう。ブラッドアンドバイオレンスで五穀豊穣とか言われても困る。
もっとも、日本神話は豊穣神こと豊受大神がスサノオもしくは月読に切り刻まれ、大地に五穀が根付くことになったという設定なので、豊穣はバイオレンスなイメージなのかもしれませんが…
とはいえ、やっぱりこんな妙な話は珍しい。当時学生だった小池先生もたいそう不思議に思ったそうです。

しかしこの話、陰陽道に詳しい人ならピンとくるのでは。
そう、魔法使いを伯道上人三番を安倍晴明に置き換えれば、そっくり『簠簋内伝ほきないでん』に書いてある晴明伝説そのものです。妻は梨花坊主は蘆屋道満ですね。

いまは簠簋内伝をまるっと解説している良書もあります。
でも、小池先生が下北半島の三番叟の起源を研究していた30年前、陰陽道はまだ民俗学に根付いているとはいえない状態だったようで、文献も少なかったのだとか。
小池先生は幸いにも陰陽道文献を読む機会があり、下北半島の三番叟伝承と簠簋内伝のリンクに気付いたそうですが、幸運な巡り合わせと言えそうです。

かくして下北半島の三番叟伝承は、陰陽道文書『簠簋内伝』を下敷きに成立したと推定されました。下北三番叟の活動が修験道の影響下にあることから、室町時代ごろ東北に入植した修験者が陰陽道のイメージを持ち込んだのではないかと考えられるようです。

研究はさらに進みます。
この伝承には類型が知られており、『日本昔話通観』によるとそれらは『柳長者と松長者』というカテゴリに分類されるそう。
逆に伝承の分布から中近世の陰陽道の痕跡を探れるのでは…という流れで講演は後半に続きます。

※余談ですが、日本昔話通観というものの存在を初めて知りました。界隈だと有名なんでしょうか。
1977年から発行開始して全31巻。昔話研究の最重要書籍のひとつだそうですが、絶版。古書の値段はすごく高い。全部揃えると数十万円オーバー。いかにニーズがあるか分かりますね…
採算の取りづらい分野だとは思いますが、電子データベースとして整備するとか、なんとか若手研究者がアクセスしやすい環境にならないものか


後半:地方寺院に修験者が伝えた陰陽道

『柳長者と松長者』型の物語が陰陽道の痕跡を窺わせるものだと分かったので、逆に類似の伝承を探すことで陰陽道の地方展開を解き明かすことが出来るかもしれない。

『簠簋内伝』に通じる民話エピソードを求めた研究は、まず『柳長者と松長者』型の物語が伝わる奄美地方に移ります。
この地の民話を収集していたところ、喜界島に伝わる『お双紙箱の由来』というエピソードに安倍晴明をイメージさせる表現が見つかりました。直接の記録はないものの、室町時代あたりに土御門流の陰陽師が島に渡ったのかもしれないとか。

同様の資料調査は新潟、そして最近では会津地方で行っているそうです。特に会津の研究は現在進行形で進んでいるようで、科研費データベースにもありました。

さて、最初のうちは調査しても陰陽師の痕跡はほとんど見つからなかったという会津。しかし、ついに只見町の寺にて1572年の写本に『簠簋内伝』の内容が含まれているのを発見。同じく田島の南照寺でも陰陽道文書を発見します。
南照寺、現在では宗派が異なりますが、かつては密教系の真言宗であったことから修験道との関わりが想定されます。
となると、会津盆地にある真言宗寺院を調べるのが良いだろう、と調査が拡大していったそうです。
そうして様々な寺を調べた結果、未知の陰陽道文献が大量に発見されたのでした。それらの内容の多くは既知のものだそうですが、取捨選択の仕方や、それを書き写した人物の足跡が残っていたりして、大変興味深いそうです。歴史の表舞台に残らっていない宗教家たちの活動の痕跡が掴めるのはロマンがありますね。続報が気になります。


こうした研究の話を聞くにつれ、民俗文化研究には地道で細やかな作業が要求されるのだと実感させられます。
そして中世の人々が伝え、広め、いつしか本義が忘れ去られても歌や踊りや民話の中に残り続ける安倍晴明の物語、その不思議な存在強度に驚いた、そんな講演でした。


参考資料

・シンポジウム『口承文芸と民俗芸能』より。下北半島における能舞起源譚と陰陽道の関係を類推する論考。本講演前半の内容と概ね一致。興味のある人はぜひ。

https://ko-sho.org/download/K_021/SFNRJ_K_021-07.pdf


・森吉野神社で奉納された三番叟の動画。子供が舞い手のようです。後半、25分あたりのステップは禹歩かな? 陰陽師の所作を色濃く反映しています。


・サムネイル画像はDegueulasse、CC 3.0、https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=44176654による。

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