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自分の好きに確証がない

将来に対する不安からどうすれば成功するかを必死に調べていた時期がある。やりたいこともなかったので成功という明瞭で大衆化された幸福を求めYouTubeや本で情報を漁っていた。どれもこれも大体似たようなことばかりで読み終わった直後は全身を包む幸福感、全能感に酔いしれるのだけどそれもすぐに終わって夜には忘れベッドに潜り込む毎日だった。
 
有象無象の情報群の中で一つ心に残っているものがある。それは”好きなことをやること”だ。思うに、いわゆる自己啓発本とかセミナーの動画から人が得る情報は全て、自分が薄々感じていたことを言語化してくれたものなのだろう。私は大学に入って勉強に対する動機を失った。それでも、何度も勉強をしなくてはならぬ、と思っていたがペンを持つ手が動かなかった。”好きなことをやること”は”できないことは好きではない”ということで、私はそれを”好きではないことはできない”と捉えた。なんとか言い訳を見つけて勉強から離れようとしていた。

世の中には好きなことの見つけ方というものがあるらしい。それは”自然と自分がしてしまっていること”が自分の好きなことである、というものだ。これに則るなら私の好きなものはYouTubeを見ること、下らぬ妄想をすること、である。果たしてこれがなんの役に立つのだろうか?

YouTubeを見ると言ったが、正確には見ていない。面白そうな動画を見つけてスキップしながら全体を眺め、動画が終わると次の刺激を探しに並べられたサムネを物色する。クリックするまでが感情のピークで動画を開くとそこには味付けされていない豆腐のような何ら感動の引き起こさないものが映っているだけだ。下らぬ妄想というのは基本的に自分が成功した後の姿を思い描くことである。小説が賞を取ったりとか会社が上場したりとか。成人している大人がこういった妄想をしているのが恥ずかしい。この妄想がもっと空想じみていたものなら、とよく思う。怪獣が街から現れたり鏡の世界に入ったり雲が個体になって降り注いできたり。そういった妄想ならSF作家として食えるようになるのだろう。私がなれるのはせいぜいライトノベル作家である。「転生したら芥川賞を取って上場した件」だ。

どうしようもないことばかり気になってしまう。自分の趣味嗜好は自分の意図では変えられない。私は趣味嗜好がかなり変化する気質でこのYouTubeと成功した姿の妄想が好きなのは今の私であって、これからもそうであるとは言えない。昔の妄想は漫画とか怪獣とかのものであったし、YouTubeもあまり見ていないくて、見ていたとしてもお笑いとか東海オンエアとか心から楽しめるものばかりであった。

今の自分の趣味嗜好が嫌いで小説を読み始めている。小説も私は凡庸なホラーとかエンタメ小説が好きなくせに純文学とか海外小説とかを無理に読んでいる。ハリーポッターが面白いくせに坂口安吾、吉田知子、太宰治を読んでいる。この前大岡昇平、中上健次、三体を読もうとして挫折した。私には彼らの小説は合わなかった。

私は自分のことは嫌いではない。むしろ好きだ。心の底から愛している。しかし同時に強烈な理想像を自身に押し付けている。純文学が好きだとか小説家を目指しているとか他人のことを全く気にしないとかSNSが大嫌いとかネットを全く触らないとか。実際の行動とはかけ離れている理想像は私に妄想を引き起こす。それは自己愛ゆえの行動である。理想像からかけ離れた現実の自分を嫌いにならないための防衛反応である。

そんなことやめればいいと思うかもしれないが、幸か不幸か私は押し付けた理想像に向かって実際に変化することができる。それは一種の暗示であって押し付けた趣味嗜好が本当にそうなってしまうのだ。純文学も二年間ほど好きだと自分に押し付けて読ませたところ、現代日本人エンタメ小説が読めなくなってきた。SNSはそもそも触らない傾向にあったものの、暗示することによってスクリーンタイムがかなり激減した。お菓子を食べないと言い続けていたらそれを超えて嫌いになった。

私は今、自身の存在の危機に陥っている。今の私は本当の私なのだろうか。私を作り出す全てが私自身の暗示なのだとしたら実際の私はどこにいる?私が本当に好きなものは何なのだ?私が好きだと思っているYouTubeを見ることも、妄想することもこれは作られたものなのかもしれない。テセウスの船のように一つ一つ私という部品が剥がれては付け直されていく。

私の核は残っているのだろうか。

不安、だ。

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