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『「逆張り」の研究』感想

表題の本を読みました。

SNSの時代において、「逆張り(逆の見方で物事を見ること)」が、「ポーズとしての/金儲けとしての逆張り」に矮小化されてしまい、逆張りの評判が悪くなっていることが問題意識としてあるようでした。
本来「逆張り」には単なるポーズ/金儲けに留まらない「真に思考を深めるための逆張り」があるはずであるというのはその通りだと思います。


1.ソローの逆張り

僕は個人的に逆張りをする人が好きなのですが、過激な逆説によって局面を
打開し、新たな生の次元を垣間見せてくれる点を魅力に感じます。

例えば、19世紀アメリカの思想家ヘンリー・ソローは「ものを外見の逆だと見るリアリストの習性ゆえに、彼はあらゆる意見を逆説の形で述べがちであった」と友人のエマソンから言われるほどの「逆張り思想家」で、物言いは屈折しています。

われわれが鉄道に乗るのではない。鉄道がわれわれの上に乗るのである

『森の生活(上)』飯田訳,岩波文庫,166項

例えば上記の物言いは、「われわれ」と「鉄道」との主語=主体(subject)/目的語=客体(object)の関係を入れ替えることで、「われわれは鉄道を自らの目的(object)に合わせて主体(subject)的に利用している」という文脈に亀裂を入れていると言えるでしょう。
「鉄道がわれわれの上に乗る」という表現は一般的にはナンセンスですが、「文明(鉄道)に対する人間の支配」という一般的な理解を逆転させ、逆に「人間に対する文明(鉄道)の支配」という隠された状況を暴露するという効果のために「あえて」逆説的な言い方をしているという感じ。

こうしたもの〔文明的なもの〕を享受しているといわれるものが、たいていは貧しい文明人であり、そういうものをもたない未開人が、未開人なりに富んでいるというのはどういうわけだろうか。

『森の生活(上)』飯田訳,岩波文庫,59項

ここでは、〈豊か-文明人〉、〈貧しい-未開人〉という一般的な概念の連関を入れ替えることで、「文明の中の貧しさ」や「未開の中の豊かさ」に注意を喚起するのが意図でしょう。
「文明の中の貧しさ」という側面は、「文明なるものが豊かである」という文脈を成立させるために、通常周縁化されているわけですが、ソローはこうした側面に光を当てることで、文明なるものの内側に存在する「差異」を明らかにし、既存の文脈に揺さぶりをかけていると言えます。

2.逆張り系Youtuber

現代においては「無関心よりは批判されたほうが金になる」というSNS的なインプレッションの磁場が強いので、逆張りが単に炎上商法として使用されることが多いですが、そうだとしても/そうした人の言説でも「常識的思考のあえて逆のことを言うことで、人々をはっとさせる」という一面は確かにあると思います。

例えば一時期話題になった逆張り系Youtuberたちも、基本的には金儲けのことしか考えていないと思いますが、たまに視聴すると面白いなと感じることがあるのは事実です。


3.興味深かった箇所

以下、『「逆張り」の研究』の面白かった箇所を列挙しておきます。

①白饅頭の「かわいそうランキング」に対する著者のスタンス(94項)

・「社会〔リベラル〕からかわいそうだと思われる弱者(障碍者、女性、在日)」の影に隠れて不可視化されている「かわいそうでない弱者(KKO、弱者男性)」に光を向けたという点で、白饅頭の言論は意味がある。

・ただし、「かわいそうな弱者」と「かわいそうでない弱者」を対立的に捉え、救われる存在には限りがある(皆を救うことができないのでどちらかを見捨てないといけない)と考える「ゼロサム的思考」は疑問の余地あり。
→「注意経済」と「社会リソース」を(意図的に?)混同している。
→部族主義的な喜びを喚起する

・SNSの時代において「注意経済(注意のゼロサムゲーム)」は体感的に理解しやすいので、他のリソース(社会リソースなど)についてもその原則が適応されると思われがちだが、そうではないかもしれない(ゼロサムヒューリスティーク)

②批評家の「懐疑」と、SNSの「猜疑」の違い(120項)

批評家の懐疑:作者ですら知らない隠された真実を暴くというスタンス
SNSの猜疑:いつ騙されるか分からない、アングラな世界での生存戦略
→匿名ゆえに道徳性が否応なく低下

③道徳的な非難を避ける傍観者(145項)

・処刑仮設
→人間は反応的攻撃性(カッとなって暴力を振るう)を抑制されたが、その代わりに能動的攻撃性(グループで計画を立てて、他の個体や集団を攻撃する)を身に付けた。
→人間は群れの中で自分が道徳的な非難を受けることを恐れるようになった(群れの中での制裁を恐れる)。そのため、責任逃れや言い逃れの傾向が高まった。
→例:いじめの傍観者

④思考のメタゲームを止めてくれる「身体的体験」と「工学知」の隆盛(189項)

・批評家(人文的)の「メタ視点に立つための差異化ゲーム」をストップしてくれるものとして、「泣いた」「傷ついた」といった個人的な身体的体験や、アルゴリズム的(理系的)工学知などが持ち出されるようになった。

身体的体験は批評することができない。ただ「受け入れるか否か」だけである(反論不可能。共感・同情するか、無視するかだけ)
エビデンス主義は、理性的判断というよりは思考のアウトソーシング

⑤「笑い」の意義(198項)

・笑いはリベラルから評判が悪い
「笑いという感情が持つ根本的な特徴が、リベラルが重視する道徳感情である「弱者」への「同情」や「共感」と相性が悪い」

・ダニエル・デネットの研究
→心の中の知識や信念に(現実との)不一致を見出した時、私たちは可笑しさを感じて笑いが起きる(信念や知識のバグ取りの報酬としてのユーモアの情動)

対象に同一化してしまうと(同情・共感してしまうと)笑うことはできなくなる。
※また「怒り」や「悲しみ」といった否定的な感情が喚起されたときも笑うことはできなくなる。
→笑いには、「当事者から距離を取り、どうでもよくなること」が必須。
 リベラル的な考え方とは相いれない部分がある。


4.まとめ

僕がソローに惹かれつつもそこに違和感(危うさ)を感じた理由を言語化してくれたような気がしました。
あるいは、遠藤チャンネルに単なる収益稼ぎ(金儲け)以上の思想を見出したくなることの理由についても。

勉強になりました。



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