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2-1-2 戦後の教員養成について

 戦後の教員養成は、敗戦の反省が出発点となりました。これは戦争へ突き進む国家の体制を受け入れてしまったという教育制度の反省と、戦地へと教え子を送り込んでしまったという教師の内面の反省とがありました。後者も極めて重要な視点なのですが、今回はあまり触れないことにします。
 「2-1-1」で述べたような教員は、戦後の教育改革では「師範タイプ」の教員として、反省され、改革の対象となりました。改めて総括すると、以下のような教員像です。

(土屋基規『戦後日本教員養成の歴史的研究』風間書房,2017,pp25~26)
 師範学校は、「師範タイプ」という、特定の鋳型に嵌められた教師像の形成に大きな役割を果たした。それは、全寮制の軍隊式教育による訓育、給費制、卒業後の服務義務制を媒介として形成された。「師範タイプ」の教師は、支配的秩序と権力的統制への服従と忍耐へ身を委ねながら、体制的価値への人民教化の役割をにない、それへの献身によって権力に奉仕するという属性を有していた。
 「師範タイプ」の教師は、総じて、教職に従事しその職責を果たすことについての職能意識が高く、同時に教授活動における技術・技能の訓練をよくうけていたものの、学問的基礎が弱く、人格と人間性の発達についての意識が希薄であった。教職に従事する者としての同属意識と連帯感をもっていたが、それはきわめて閉鎖的な集団性であった。
[中略]日常生活の一挙手一投足まで監視され、人間的自由を奪われて不自由な生活と規律を要求されたのは、戦前日本の小学校教師が絶対主義的天皇制の支配機構に組み入れられ、「教育勅語」を至上の価値とする「忠良なる臣民」を育成する役割を担わさせられていたからである。「師範タイプ」の教師を生み出し、軍国主義的国民形成に大きな役割を果たした師範学校は、戦後の教育改革において根本的な改革の対象とされなければならなかったのである。

 なお、戦前の学校教育の問題点をすべて「師範学校」にあるとする見方には、それはそれで偏った見方であるという意見もあります。つまり、師範学校での教員養成には確かに問題点はあったが、そこで得られた色々な成果がなかったことになってしまったのではないか、という見方です。

(柴田義松ほか編著『教育実践の研究』図書文化,1990年,第2章より第一節(辻本雅史監修・船寄俊雄編著『論集 現代日本の教育史 第2巻・教師論』日本図書センター,2014年所収,pp430-431))
 戦後の教育改革によって、師範教育の撤廃と教員養成制度の抜本的改革が求められた。それは国家のための教員養成を行った師範教育の宿命ともいうべき国家主義、画一主義を排除しようということであった。したがってまた、そこに結びつけられた軍国主義を排除するということでもあった。
 その時に、師範教育の制度の撤廃は師範教育で試みられたべてのことを一緒に押し流してしまうことになった。実は、わが国の近代の学問もまた同様に、国家にすう須要の学問としての制限を受けて発達してきたのだが、学問と教員養成とは長年にわたって区別され、学問は国民教育にかかわらないことをよしとしてきたといってもよい。そのために、学問は教員養成から逃避してきただけなのに、国民教育を誤らせたすべての責任を師範教育に帰して師範教育を駆逐しようとしたといえるのではないかと思う。たしかに、師範教育を清算して、大学における教員養成の制度を実現したことは、戦後教育改革のもっとも大きな改革の一つであった。しかし、アカデミスムの側にも種々の、問題はあったし、今日でもそれは続いていると考えることができる。しかも、それは単にわが国だけの問題ではない。民衆の子どもの諸能力を育てたり、民衆を啓蒙したりする仕事は、どの国でもどの時代にも決して憧憬に値する仕事ではなく軽視されたし、いつも別の志を達成することができなかった者に託されることも多かったのである。
 それにもかかわらず、私たちは、わが国の師範学校が、質的に高い国民教育者の養成に貢献し、高等教育への進学の機会が決して多くはなかった時代に大衆にもっとも近い知的エリートの養成機関として果たしてきた役割が大きかったことを見逃すことはできないと思うのである。師範学校もまた、民衆の文化や土俗的習俗を軽視し、近代化に共有の、外来の接ぎ木文化を伝達するという性格を担わされていたが、その中でも高度な教授思想と一定の自発的な技術の探究心と次代の担い手に眼を向けた教育制精神とはたしかに培われてきたのであった。そしてまた師範教育を受けた人たちが、大衆の中のあるいは大衆に接した生活者であったため、近代以前から持続する民衆の生活文化にもっとも近いところで土着の文化性を育んでいく自己教育力を培ったことも否定できないと思うのである。

 戦前の教員養成は、現代の教育免許状システムのように整備されておらず、複雑な免状制度となっていました。具体的には以下のようなものでした。

(天野郁夫『新制大学の誕生 上』名古屋大学出版会,2016年,pp78~79)
 教員の養成については明治以来、初等教員は(尋常)師範学校、中等教員は高等師範学校が担うものとされてきた。中等学校の種類としては、中学校・高等女学校(実科女学校を含む)・実業学校・師範学校の四種があり、明治三〇(一八九七)の「師範教育令」によれば、高等師範学校はこのうち「師範教育令」によれば、高等師範学校はこのうち「師範学校尋常中学校及高等女学校ノ教員タルヘキ者を養成スル所」とされていた。実業系の科目を担当する実業学校の教員養成については、別途、「実業学校教員養成規定」(明治三二年)が用意され、中等学校卒業を入学資格とする農業・工業・商業の各教員養成所が、帝国大学や官立実業専門学校に附設されていたことを付け加えておこう。[中略]
 しかし、このわずかな数の官立養成機関だけでは中等教員需要のすべてをまかなうことは困難であり、文部省は別途定められた「教員免許令」(明治三二年)による免許状の授与制度を通して、高等師範学校以外の供給源を確保し不足を補う政策をとってきた。同令によれば、中等教員となるために必要な免許状は、教員養成を目的とした官立学校の卒業者には無条件で授与し、それ以外の者は「教員検定」に合格する必要があるとされた。その検定は「無試験検定」と「試験検定」に分かれ、「無試験検定」の対象はさらに、文部大臣の「指定学校」卒業者と「認可学校」卒業者の二種類に分かれていた。つまり中等教員としての免許状取得には、①検定を必要としない官立の養成目的学校卒業者、②無試験検定合格(指定学校卒業者)、③無試験検定合格(認可学校卒業)、④試験検定合格の四つのルートがあり、この他に⑤免許状を持たない教員の任用も認められていたから、供給源は実質的に五つに分かれていたことになる。

 このような複雑すぎる体制は、1949年の教員免許法制定によって根本的に改められることになりました。背景にあるのは、「大学による教員養成」を通した「師範タイプ」教員の排斥です。

(土屋基規,前掲書,p225)
 戦前においては、教員の資格制度は、1884(明治7)年の布達21号「小学校教員タルラン事ヲ欲スル者ハ小学校訓導タルヘキ免許状ヲ有スル者ニ非サレハ教員タルコトヲ得ス」という規定が設けられ、免許状主義がうたわれ、その後の勅令や規則改正によって制度的に整えられた。しかし、戦前のこの資格制度は、免許状主義をうたっているとはいえ、同時に「文部大臣ノ定ムル所に依リ免許状ヲ有セサル者ヲ以テ教員に充ツルコトヲ得」という例外を規定するなど、教員資格制度としてそれ自身問題を含んでいたし、師範学校を中心とした教員養成制度を前提とする資格制度であった。そして、何にもまして、戦前の教育は国民の権利としての教育ではなく、天皇と国家に対する臣民の義務としての教育であり、教員は天皇の官吏としていっさいの市民的自由及び教育の自由と権利を奪われ、創造的な教育実践の自由を抑圧されて、体制的な教育への服従を軍国主義的国民形成の役割と職務とさせられていた。
 戦後教育改革の一環として免許法が制定されたのは、国民の権利としての教育を制度的、内容的に保障するうえで、新しい教育の精神と高い資質をもった教師が必要であるからに他ならないからである。国民の基本的権利としての教育、とりわけ子ども・青年の学校教育における人間的発達を保障するうえで、個々の教師および教師集団による系統的、組織的な取り組みが不可欠であり、教師が科学と真実を中心とする教育の実践に専門的識見を有し、教育の内容と方法について日常不断の研究を基礎として、「教育を通じて国民全体に奉仕する」努力をする資質・能力の向上が必要だという文脈において、免許法の立法趣旨は理解されるべきである。

 新学制がスタートしたのは1947年、教員免許法が制定されたのは1949年で、さらに大学で教員養成課程を修了した「新しい教育の精神と高い資質をもった教師」なるものが供給されはじめるまでにはタイムラグがありました。絶対的な教員数の不足を補うため、小学校教員については暫定措置として3ヶ月および6ヶ月の講習を経て使用されたり、通常4年課程を修了した者に教員免許状を授与するところを、2年の養成課程を修了した者に小学校、中学校の第2種免許状を授与するといった措置がとられました。やむを得ない事情があったとはいえ、こうした窮余の策をとったことは、後々まで尾を引くことになりました。
 教員養成をめぐるもっとも大きな変化は今まで述べてきた通り、教員養成の場が師範学校から大学へと移されたことでした。その後も1953年の教員免許法(正式名称;教育職員免許法)により「新しい教員養成制度は、大学における教職課程のカリキュラム編成で、免許基準に定める一般教養、教科専門、教職専門の記事運を充足する履修により教員資格を認定する、いわば「完全開放性」ともいえるしくみで発足したが、免許法1953年改正によって、大学の教職課程は文部大臣の許認可により課程認定が行われ、文部行政により管理、統制の下におかれるようにな」(土屋基規,前掲書,p287-288より引用)るという大きな変化があった。
 これと並ぶ免許法の大きな改正は1988年にあり、この時は
(1)「専修」免許状の創設、普通免許状を「専修」「一種」「二種」の三種類とすること。
(2)教科の領域の一部などの教授または実習に、免許状なしの非常勤講師を充てることができるようにすること。
(3)大学で普通免許状を取得するのに必要な、教職、教科専門科目の単位数を引き上げること。
(4)教育職員検定で他の種類の免許状の授与をうける場合の最低在職年数をよび最低修得単位数を定め、在職年数により単位数の逓減をすること。

 といった改正がなされました。とりわけ批判されたのは、専修免許状の創設と、特別非常勤講師制度の導入です。

専修免許状について(土屋基規,前掲著,p487-488より引用)
 専修免許状については、一方で大学院修士課程での単位取得、修了を基礎資格としながら、他方で大学院修士課程相当の現場教育と見なし難い方法で資格認定するというのは何故なのか。多くの現場教員に専修免許状取得の機会を平等に開くとなると、別の資格認定の方法を導入しなければ対応しきれない。その解決策として、大学院での単位取得に代替する多様な単位取得の機会をみとめ、教育職員検定による
専修免許状の授与に在職年数により単位の逓減措置を導入し、大幅な単位の読み替えをすれば、それによって大学院修士課程相当の現場教育の意味がなくなってくる。そうまでしても専修免許状を創設しなくてはならない政策上の意味は何か、が問われる。
 普通免許状の三種別化は、結局、三段階の免許状ということになり、職務は同一だといっても教師の間に資格による格差をもたらし、職域で協働関係の構築を困難にする要因ともなりかねない。子どもに対する同じ職責を負う教師たちに、資格の上で格差をつける必要はどこにもなく、子どもは最高の専門的力量をもつ教師から最善の教育を受ける権利を持っているのだから、教師の資格をいわば「特上」「並」「下」とでもいうように事実上ランクづけることは、子どもの権利侵害にもなる。資格の違いが待遇の違いに連動するなら、本来的に対等平等の教師相互の協力関係が崩れ、教師の間に新たな格差をもたらす要因になりかねないことが懸念された。
 専修免許状に関しては、1996年までに、既設の教育系大学・学部の大学院修士課程がすべての都道府県に設置されたので、新構想教育大学院と既設の教育系大学・学部との格差が大幅に縮小され、現職教員の大学院での単位取得による専修免許状取得の機会に新たな条件が整備された。
(土屋基規,前掲書,p493より引用)
 「特別免許状」の創設について、(略)この制度は、大学での養成教育に基づく免許状の授与が、基礎資格と修得単位により免許基準を充足することを客観的、合理的に認定されるしくみと異なり、教科に関する専門的な知識や技能、教職への熱意と識見などは、教育行政当局が判断し、諮問機関に諮ることになっているが、任命権者の恣意的な運用にならないように、客観的、合理的な基準と手続きが確立されるかどうか、が課題であった。
 特別非常勤講師に至っては、無免許で教えることを公然と認めるに等しい特例措置で、現行法制の基本理念である免許状主義を崩し、罰則規定を空洞化するもので、原理的にも歴史的にも大きな後退であるといわざるを得ない。
 この点については、新免許法が、中学校または高校の普通免許状に関し、「文部省令で定める教科」につき、教員資格認定試験の合格の他に、「文部省令で定める資格を有する者」に免許状を授与することにしているのは、教育課程の基準の改訂および学校制度の改革に対応する新しい教科が設けられるとき、これに柔軟に対応するという趣旨によるとはいえ、二重の特例措置を設けることになり、どのような教科の免許状であれ、国会審議の対象とされず、教育行政当局が自由に改廃できるようにすることは、現行法の法律主義の原則を空洞化する措置であり、安易に採用すべきことではない。

 教員免許法を改正したとして、これに声をあげて批判する者は、深い識見をもつ現職教員か、一部の教育学者くらいではないでしょうか。他方で、学校教育に与える影響はすこぶる大きく、したがって政府にとっては「コスパのいい」教育改革であるはずです。教員(養成)の変遷をたどることは、政府が学校教育をどういった方向に誘導しようとしてきたかをたどることと等しいのです。
 長くなったのでこの記事はここで終わりにします。次回からは新自由主義の教育への反映として、臨時教育審議会での議論を取り上げたいと思います。

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