好きなものと信念


たつみさんの記事を読んで、自分もだいたいたつみさんと似たようなスタンツでTwitterをやっていることや「譲れないもの」が強い人間なので、共感しつつ読みました。

今回は「漫画・小説・アニメ・映画・演劇」などの「創作物」についての好き嫌いの話です。読み手(消費者側)としての考えと、作り手(一次創作同人)としての考えはまた違うとは思うのですが、なるべく分けて考えるようにしてみます。

◆好きなものはなんですか
→今も昔も変わらず読んでいる作品を思い出すと「メンタルの部分で救われる・認められる人物」の話が好きなんだろうなあ、と思います。なにかに傷ついている・迫害されている登場人物が、新しく出会う人や物事によって自己をみとめられ、愛され、そしてだれかを愛する(愛する、というのは「恋愛」だけに限りません)ことができるようになる物語。
 登場人物、というのが重要なんだと思います。常々「キャラ萌え」を自認しているのですが、どんなお話を読んでも、登場人物たちの心理描写や気持ちが自分の中では重要のようです。
しかしこの要素は、どんなドラマでもある要素だと思います。
じゃあなんで好き嫌いとか、これは心動かされないなと思うものがあるのだろう。

たくさん原因があると思うのですが、先日とある作品を見まして。いろいろと思うことがあったのですが、その中の一つに
「10代主人公の抱えた悩みや焦燥感、渇望が、自分の体験したものと違う(=自分の心の傷とは違う)のでシンクロ出来なかった」
というものがありました。

じゃあお前の「傷」ってなんやねん、って話になりますよね。
少し話はそれますが、私の好きな漫画の一つに、永野のりこ先生の「電波オデッセイ」という作品があります。
https://www.amazon.co.jp/dp/B074Z2RSWF/ref=dp-kindle-redirect?_encoding=UTF8&btkr=1
引きこもっていた中学生の女の子・原が、突如「受信」した「オデッセイ」なる存在の言葉によって、学校で破天荒な行動をするようになり、原の騒動が、実は葛藤や悩みを抱えた周囲のクラスメートにも影響していく……という、中学校を舞台にした青春ものです。
ここで描かれる中学生の悩みは、他人(大人)から見れば些細なもので(太っている女の子や、文字が綺麗に書けず、あこがれの先生に添削されてショックを受ける子、オタクだとからかわれる男の子、「変人」をいじめることによって自己を保とうとしているけれど、自己嫌悪に陥る女の子など)
それは、かつての私や、今の私が生きる中で受ける「傷」と似た形をしているな、と、読むたびに思います。
そして、これは作者さんの作品の特徴ですが、いじめてきた相手を社会的な形で「断罪」してすっきりするものではないのです。
上手く表現できないのがもどかしいのですが、いじめてきた相手の顔が真っ赤になるくらい「やり返す」ような描写が少ない……といえばいいのでしょうか(あまり具体名をあげるのは野暮だとは思ったのですが、某バラエティ番組……スカッと……で始まる名前のアレです……あれが私は苦手で……。虐げられている、という描写を見るのも辛ければ、後半で「成敗」された相手を見るのも辛いのです。だって自分だって立場が変われば「誰かを虐げている」のかもしれないし「成敗」されるかもしれないのに……と怖くなってしまう。現実の世界には絶対悪VS正義のヒーローは居ないので)

私の中の「傷」を癒してくれる物語が私は好きです。
だから「傷」そのものが違ったり、癒し方の方法が違うと、たぶんそれは私にとっては「完全な他人事」になってしまい、物語の出来事だけを追うだけになってしまうのだと思いました。

◆譲れない信念はなんですか
だから、私はたぶん創作作品の中で「傷ついたキャラクターが、誰かによって救われる・救う」話を書き続けてるんだと思います。
これは、変身ヒロインものでも、美少女同士のバトルノベルでも、お店屋さんキャラ文芸でも変わっていない、自分の「信念」なんじゃないかなあと思う昨今なのです。

これを書くために「電波オデッセイ」ぱらぱら読み返して「ここにいてもいいんだよ」「おみやげを探すためにこの世界にいるのだよ」という言葉がやっぱり優しくて、10代の終わりかけに読んだときと、三十路の私、どっちも同じように(もちろん、今は別の読み方もあるのでそこも楽しいのですが)泣いているので、自分の感性が死んでないことに安心しました。

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