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旅のはじまりはJ.Pゴルティエだった

ジャン・ポール・ゴルティエ氏がファッションデザイナー
を引退したというニュース。
実は私とヴェネツィアをつなぐ縁の始まりは、
ゴルティエ氏だったといえるのかもしれません。
あの時、ギャラリーに偶然彼が入ってこなければ、
今の私は私ではなかったかも。
過ぎていった80年代のお話です。

仕事も遊びもいつも一緒のふたり


バブル華やかりし80年代、親友のKちゃんとは仕事も遊びもいつも一緒
でした。私たちには常に誇大妄想的な計画があり、それを発表しあっては
盛り上がっていたっけ。
ニューヨークやパリやロンドンとよく一緒に旅もして、あっちこっちで
珍道中を繰り広げたものでした。若さゆえか、ふたりでいると妙な度胸が
湧いて怖いものなしでした。
武者修行のようなつもりで好奇心の赴くまま、美術館やギャラリーは
もちろん、オペラやバレエやダンスやコンサート、クラブや高級ホテル
やレストラン等々---いろんなところへ出かけてはいつも腰を抜かすほど
感動していました。
Kちゃんとの旅先でのエピソードにはこと欠きません。
ニューヨークでは借りていた部屋の鍵が念力によって!折れ曲がってしまうというアクシデントに見舞われたり、毎日自然史博物館に入り浸ったり、
ロンドンのペンハリゴンズやフロリスでは店の人に呆れられるくらい
山のように買い物したり、バースでホテルに預けた荷物が別な団体バスに持っていかれちゃったり、パリのレストランでしたたかに飲んで千鳥足で
ホテルに帰ったり。
あれほど感動を共有できる友に出会えたことは驚異というべきで、その頃のたくさんの感動や経験が今の私のベースになっていると思っています。


ソバージュヘアと太マユの時代


ソバージュヘアでおまけに流行の太マユの80年代、トレンドファッションといえばまずはFIORUCCIでした。ふだんは新宿の伊勢丹が御用達だったけれど、初めてイタリアはミラノのショップに行ったときは全部買い占めたい
くらい狂喜したものです。
フィレンツェのちょっとエロティックな動物をモチーフにしたDODOの
アクセサリーにはまった時代もありました。
ニューヨークに行っていた頃はレミニッセンスやベッツィー・ジョンソンのショッキングピンクなポップ服や、イーストヴィレッジでヴィンテージ古着を買いあさっていました。真っ赤や紫色のど派手なレースのストッキングにアニマルプリントや迷彩柄や蛍光色のニット、レザーのスカートに毛皮の
古着なんていう悪趣味風コーディネートも定番。
ああ、若かったなあ。

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LUCKY TACKY ラッキーな悪趣味


1983年に私たちはそれまで出会った西洋美術へのファンキーなオマージュというか、女子宇宙的解釈によるパロディというか、おもちゃ箱をひっくり
かえしたようなキッチュでど派手、シュールでハッピーな展覧会を
開きました。タイトルは一応韻を踏んで「LUCKY TACKY」、
ラッキーな悪趣味(TACKY)。
それは私たちなりのアートによるロックンロールだったのかもしれません。この展覧会はいろんな意味でひとつの契機にもなりました。
私たちは事務所をつくり、ユニットとしてアーティスティックな仕事を始めたのです。

また、その時とんでもなく偶然に展覧会のギャラリーを訪れた
ジャン・ポール・ゴルティエ氏との出会いが、私をパリへと導く人脈の
端緒となり、ひいては後にヴェネツィアまでつながることになるのだから、
人の縁とはまったくもって不思議としかいいようがありません。
ゴルティエ氏は両手を広げ大きな声で「Tres tres bon !!」と言いながら
ギャラリーに入ってきました。
そして埋め尽くされたキンキラピカピカの作品をひとつひとつ賞賛し、
是非パリのアトリエに来るようにと言い残していきました。

その後間もなく私は本当に大きなポートフォリオを持って、
ひとりでパリのゴルティエのアトリエ(当時ギャラリーヴィヴィエンヌの)を訪ねたのです。フランス語などろくに話せないのに、一体どのように
ランデヴを取りつけたりしたのでしょう。
私はまったく若くて怖いもの知らずでした。
その時、手まわし良くACTUEL誌に私たちの展覧会の記事が掲載されて
おり、さらに雑誌の20ansを紹介されて取材を受けました。
今思えば、当時ゴルティエ氏はまだ30代前半です。けれどもすでに仰ぎ見る存在だったので、ずいぶん年長に感じていました。
実際にゴルティエ氏の紹介の威力は絶大でした。たしか、ちゃんと雑誌の
掲載料というかギャラも支払われたと記憶しています。

ゴルティエを訪ねてパリに行った当時、私はソバージュではなく
前髪ぱっつんのおかっぱボブに黒ずくめの服、ストイックなアーティスト、詩人風というところ。実際、ポエトリーリーディングやローリー・アンダーソンにいたくはまっていた頃でした。
おかげでパリでもだいたい中国人、シノワに間違われたものです。
この頃のパリといえば、J・ジャック・ベネックスの映画「DIVA」が
一世を風靡していて、私もSACHAのピンヒール(後に石畳にヒールが食い込み折れる)にSCOOTERの革コートで友人のバイクの後ろに乗り、パリの町を走りまわっていました。
DIVAではベトナム娘でしたが、生意気なアジア女というのがちょっとした
アドバンテージな時代でした。
オペラ座やディスコ・クラブ(BAINS DOUCHES)も、下町のビストロも
皆バイクの二人乗り。パリはエキゾティックでちょっとデカダン、
そしてきらめくような刺激に溢れていました。

ポップキャンディーの日々


Kちゃんとは撮影美術やインスタレーション、店舗ディスプレイ、舞台美術などアートワークの仕事をしていました。大好きなデコラティブなテイストに浸り、お互いを驚かせたくてオブジェ作りに没頭していたものです。
なんと事務所の名は不遜にも「FINEART」だったのだから、ほんとに若くて生意気でしたね。
バブル真っ盛りの約10年間を駆け抜けるように仕事をした後、
彼女はロンドンに移り住むことになり、そこで思いもよらなかった
ガーデニングの世界と巡り会い、人生のあらたなステージを迎えることに
なります。
私といえば、いつか住むかもしれないと思っていたパリで、撮影の仕事を
通じてヴェネツィア人のカメラマンと知りあうことになり、
パリからイタリア、そしてヴェネツィアへと導かれていきました。
そのヴェネツィア人カメラマンを撮影のコーディネーターとしてブッキングし、出会いのきっかけを作ってくれたのが、先にゴルティエのアトリエで
知り合って友人になっていたRちゃんだったというわけです。

運命といってしまえばそれまでですが、きっとこうなるべきエネルギーの
ような力がはたらいて、それぞれの道が拓けていったのでしょう。
Kちゃんはその後ヴィジュアル系ガーデンデザイナーとして才能を発揮、
いまやカリスマ的存在です。昔から美しいものへのこだわりが飛び抜けて
いた彼女の感性が文字通り花開いているのを見るのは、友人として
誇らしく、またとても愉しい。
旅も日常のひとつのかたち、と思うと私たちはずっと旅を続けているの
かもしれません。そして旅はいろいろな出会いで紡がれていくのです。
ソバージュ&太マユギャルだった私たちが夢中でいろんなことを語り合っていた日々。ポップキャンディーのようにカラフルに思い出されて、
無性に懐かしく愛しい。


デザイナー、美術家、料理家。イタリアはヴェネツィアに通い、東京においても小さなエネルギーで豊かに暮らす都市型スローライフ「ヴェネツィア的生活」を実践しています。ヴェネツィアのマンマから学んだ家庭料理と暮らしの極意を伝えます。