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当たり前ができない大人たち

入院中の私は病棟のナースステーション前の給湯器でお湯を少しこぼした。面倒くさいし、そのまま立ち去ろうと思ったが、気持ちがモヤモヤしそうで紙ナプキンを取りに行きお湯を拭いた。

そこで思い返した。

小学生の頃って、ほとんどの子達が後片付けだったり、怪我した子がいたら皆んなで保健室連れて行ったりする。
逆に大人になるとタバコのポイ捨てや電車で子供連れ夫婦に怒鳴ったりと相手を思いやる心がなくなっている気がする。

と。

子供の方が、世間に求められる当たり前の行為ができている気がするのだ。自分の始末は自分でし、気がつけば人を助ける。簡単そうで意外と難しいことを案外やってのけるのだ。

一方、大人はどうだろう。
先程述べた通り、皆がどう見ても悪であることを悪気なくしてしまう。頭が凝り固まっているのかもしれないが、おかしな事だと思う。私は以前の職場が治安が良くない場所にあったせいもあり、道端にはゴミが散乱しているのを見ながら通勤していた。ゴミは様々な種類があったが、明らかに子供が捨てないようなものばかりであった。吸い殻は毎日見るし、ビール缶とその周りにはカップラーメン。など大人が捨てたであろうものばかりであった。

子供に手本を見せなければならないのは大人であるのに、何故こんなにも当たり前ができない大人が多いのだろう。

ここからは私の推測も入る。
人はTPOにより、役割が変わる。
例えば、36歳女性の場合、

家族の中では母親
職場では係長
飲み屋では綺麗なお姉様

などと変わっていくのだ。
それに伴い、この女性はTPOによって無意識に態度など演じ分けていると思う。
実際私もそうであるから。

さて、では大人がTPOが関係なく自分の素がでやすいのはどこだろうか?

1人で行動している時の公共的な場所

であると思う。

1人行動の時は、演じる必要がない為、素がでる。

分かりやすいのは電車の中だ。

子供は年齢によっては泣いたりするものの、
ある程度知能がついてきた子供であれば静かに座っている。親と話す時も静かに話しているのを見ているとなんだか微笑ましい気持ちになる。
小学生がお年寄りに席を譲っているのを見て、驚いた事もある。
少しうるさくしても、周囲の大人が真っ当な注意することもある。学んでいくのだ。
よって、あまりにも小さな子供の場合は泣いたりして周囲にはある種迷惑と捉えられる反応をしているが、本能的なものである為、周囲の人間がこの事を理解しなければならない範疇であると思う。

大人はどうだろう。当たり前ではあるが、静かに座っていたり、立っていたりする。話している若者もいるが、声の大きさなど常識の範囲内で会話しているように思われる。ほとんどの方が気遣いはできている(酔っ払いは除く)。

しかし、私は電車内で少しショックな経験をした。
私は急に体調が悪くなったりしてしまう為、ヘルプマークを身につけている。
故に優先座席の近くにいつも立っていることが多い。
体調が良い時はヘルプマークを隠して立っていたりする。
ある日、体調がいきなり悪くなってしまった。病院に行かなければならなかった為、目眩がひどい中、ヘルプマークを身につけて電車に乗った。しかし、席は空いていない。しかし、立っていたら確実に倒れると思った為、
目の前に座っていた男性に
「すみませんが、目眩がしているので席を譲って頂けませんか?」
と聞くと、目を瞑り寝始めた。 
無視されてしまった、どうしよう。
と思っていると、近くで立っていた別の男性が手をとって、他の人に声をかけて座らせてくれた。
あまり、障害者であることを全面に押し出したくは無いが、あの体調が悪かった日の事を思い出すと大人って怖いなと思ってしまった。

また別日には、赤ちゃんの泣き声に怒鳴っている老人がいて、驚いた。赤ちゃんが泣くのは当たり前なのに、何故怒鳴るのか理解できなかった。

といったように感覚的に大人の方が未熟に見えてしまうのだ。

私の中の定義では、子供は成長する存在で、大人は熟した存在である。

今日の私も大人になりけけていた。
お湯をこぼして、無視しようとした。

しかし、こぼしたお湯を拭く選択をした。
いつまでも成長しつづける子供でありたい。

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