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【一次創作】 悪役描くのは難しいよねっていうありふれた悩み

一次創作小説「魔宵子まよいごたちの北極星」の第二部を公開し終えました。

https://ncode.syosetu.com/n8900in/

実際には予約投稿でもう完結まで書き終えているのですが、いつものように告知はオマケでコラムが本命です。


【傷つけ合いたくなんてないんだ】

皆さん「わんだふるぷりきゅあ!」見てますか。いや別に見ていなくてもいいんですが、ちょうど時流と今回のテーマが噛み合ったストーリー展開なので。

「わんだふる」は今のところ戦わず「ガルガル」になって暴れ回る動物たちを止めるためにプリキュアに変身するというお話です。
悪役不在でなぜこんなことになっているのか不明なんですよね。「ガルガル」になってしまった動物たちが一番の被害者であって、暴れて他者を傷つけてしまう。それをプリキュアが止める。
実に王道で良く練られた脚本です。さすがプリキュア。

【「敵役」と「悪役」は違う】

私はこういう風に、悪役不在のまま戦うことが前提になっている作品って好きなのですが。

るろ剣の和月伸宏先生からの引用ですが「敵役」と「悪役」は違うという考え方があります。
ドラゴンボールのピッコロ大魔王やフリーザ様は悪役。魔人ブウやベジータは敵役という感じに語っていた記憶がありますが。

というか、コレを語っていた頃のワッキーの基準で行くとほとんどの敵対するキャラクターで「悪役」がいなくなるほど厳しい基準値が設けられているんですけどね。
るろ剣本編で言うなら「悪役」は比留間兄弟や観柳(コイツは後に北海道編でダーティヒーローに転身)に雷十太先生くらいで、ようするにまぁしょっぱい。
かくも魅力的な悪役を描くのは難しい、とるろ剣(20世紀版)連載終了直後のワッキーは語っていたのですが、全くもって同感です

※※※

主人公たちと敵対しても、実態を暴けば単なる被害者だったり、志は同じだったり、情状酌量の余地があったり、信念が違うだけで人物としては立派だったり、そういうキャラクターは敵役になっちゃいます。

これらのキャラクターを魅力的に描くのが簡単なわけではないのですが、しかし物語にドラマ性を生みやすく、結果的に敵役にした方がお話は作りやすい。

【悪役とは憎まれ役を担うキャラクター】

でもそんな連中とばかり戦っていると、受け手側は不満が溜まるんですよね。
フィクションでくらい、この鬱憤を晴らさせてくれよと。
本当はわかりあえるかもしれない、手を取り合えるかもしれない連中と争い合いたくなんてない。
だって現実でそうならないために努力し続けている私たちは疲れきっているのですから。

そういう不満やフラストレーションを一身に受け止め、同情の余地無く問答無用で叩きのめされるのが悪役です。

悪役はその名の通り、悪いことをします。
他人を傷つけ、尊厳を踏み躙り、そうした者たちを嘲笑する。
こんな連中がやっつけられると、そりゃあ気持ちが良い。
でも、悪役が悪行をしている場面は受け手側にとってフラストレーションが溜まる。
だからこそやっつけられる場面がカタルシスなんですが、この塩梅が大変に難しい。

※※※

結果的に、悪役は受け手側の感情を考慮して「悪さをしたら即刻劇中から退場する」という扱いになりがちです。
結果的に彼らのバックボーンやキャラクター性を描く余裕が無く、薄っぺらいどこかで見たことのあるようなテンプレートをコピペしただけのような悪役になりやすい。

だから魅力的な悪役を描くのは難しいんですよね。
そもそも、多様性を重んじるという建前が掲げられている現代では重厚な悪役というのは求められていないのかもしれません。
あいつもこいつも、わんだふるぷりきゅあ!になぞらえれば「ガルガル」しているのはそれなりに理由がある。
悪だと勝手に決めつけて叩きのめして、本当にそれでいいのか?

こういう事情もあって、薄っぺらい悪役を次々ざまぁしていくのが現代に求められている創作傾向なのかもしれません。

【私的に思う魅力的な悪役】

ここまで書いておいてお話を締めてしまうのは卑怯なような気もするので、私が「魅力的」だと思った悪役を多少連ねようかと思います。

【真人(呪術廻戦)】

うるせーって言ったかと思えば
メソメソ呟いているのを煽ってくるこのスタイル

魅力的な悪役を描くうえで重要な要素の一つが「台詞回し」だと思うのですが、真人はそれも含めて大変よく出来たキャラクターでした。

主人公の悠仁との因縁、悪辣でド外道で同情の余地無しであることが設定上揺るがない(人間が人間を呪う力から誕生したため)、そして今までやってきた行いに相応しい「人を呪う人間の軽薄さ」が浮き彫りになるみじめな最期であり、今まで溜めてきた読者のフラストレーションをしっかり爆散させた素晴らしい奴です。

なお真人退場後に読者により強烈な抑圧を与えるのが呪術廻戦というお話なのですが。

【T-800/T-1000(ターミネーターシリーズ)】

ターミネーター(初代)はとくに、悪役であるターミネーターこそが主役とすら言える映画ですね。

殺人マシーンが殺人マシーンらしく、ひたすらにどこまでも執拗に追いかけて主人公を抹殺せんとする、ただそれだけのキャラクターなのですが、そのシンプルイズベストなバックボーンと演出があいまって名悪役と言えましょう。

※※※

続編のターミネーター2の悪役はT-1000ですが、コイツもコイツで恐ろしい。

「前作の敵であったT-800の改良型であるT-850が味方についているぜ!」という前提をあっさりと覆す、絶望的な強さと悪質性。
執拗に追いかけてくるというキャラクターは一貫し、ホラー要素とアクション性の両立を映画史に与えたヤツです。

なおターミネーターは初代と2、両方とも倒され方もグッドなんですよね。
どっちも「絶対絶命!どうやれば倒せるんだ!?」という状況を描き続けて、最後の最後まで足掻いて場所と知恵と勇気と行動力を全て駆使して倒しきる。
「人間が機械なんかに負けるはずない!」というテーマがちゃんと描かれています。

【白面の者(うしおととら)】

初登場シーンから既に「睨め上げる眼」という一貫性

スペックだけでも劇中最強のくせに、やることなすこと搦め手でそれが大変に悪辣という絶望的なラスボス。
ストーリー序盤から言及され、全33巻に及ぶ大作でラスボスを張り続けたすげぇヤツ。

うしおととらは、そのタイトル通りに潮ととらが主役の物語なのですが、その裏側で白面の者の被害者たちとの争いと白面の者そのもののキャラクターが徐々に描かれ、とらの正体が判明することで「うしおととら」とは「白面の者」でもあったとわかる重厚な悪役です。

コイツの何が凄いって最終決戦の際の際において判明する設定が、序盤の時点でちゃんと既に描かれており、全くブレていないし「倒さなければいけないヤツ」なんですよね。
読者はコイツを憎んでもいいけど、倒す側は憎んだり怒ったりすれば攻撃が通らないので、それでも撃破できたあたり、悪役ではなく敵役に近い所もあるのですが。

そもそも藤田先生は敵役も悪役も、ちゃんと描き分けられるところがすげぇのですが。

【総じて】

娯楽作品は娯楽作品であるが故に、受け手を楽しめませなければいけないのですが、そこにはハラハラとドキドキ――つまり不安や不穏というマイナスの感情を抱かせ、それを発散させるというなんとも面倒くさい手順を踏む必要があるわけで。

これを担う悪役というキャラクターはやっぱり魅力的に描くのは難しい。
なんなら逆転して、悪役の方が真っ当で主人公側の方が悪辣じゃねーのか、というツッコミはもう食傷気味で極悪勇者や悪役令嬢モノなんかはテンプレの一つと化しています。

個人的には、そんな中で近年の人気作においてしっかり悪役として散った真人はとくに評価したいところです。

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