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ペルソナ5 獅童及び無印版ラスボスについて 後編

P5の黒幕的キャラクターである獅童関連についての考察記事になります。
前編はこちらから。

また、無印版ラスボスについても関与してのお話になるので先にネタバレ注意と書いておきます。

とくに今回は無印版ラスボスのスクショを大量に張っていくので本当に注意してください。

【ラスボスとの繋がり】

作中描写からという点で確証はないが、獅童はヤルダバオトが現実世界へと介入するために利用されたアバター的存在だったのではと解釈している。

【目のモチーフ】

突然だが、この画像の赤丸で囲ったマークに注目してもらいたい。

これは獅童が立ち上げた政党「未来連合」のマークらしく、獅童パレス内部にはここだけでなくあちこちで大量に使われている。
とくにシャドウ獅童戦開始ムービーでは戦場を覆うようにこのマークが大量に出現する。

私がこのマークを見て真っ先に思い出したのはドル札に描かれているプロビデンスの目であり、陰謀論でのフリーメイソンのシンボルだった。

地球を両手で包み込み、見下ろす目。
なんとも居心地の悪い感じがして権利主義の監視社会を思い起こさせる、実に獅童らしい嫌なマークである。
だが同時に、獅童は己をライオンとなぞらえているところがあるので、より力強いシンボルを好みそうだという違和感も覚える。

で、二週目で細かい所をちゃんと見直しながらプレイしているとどうやら全然違うモノらしいということに気づいた。

※※※

以下の画像はラスボス第一形態の聖杯である。
床から生えた手に青丸を描き込んだのでそこに注目してもらいたい(赤だと真っ赤な背景のせいで見えにくかった)。

どう見ても目である。
目のようなマークどころではなく、まつ毛まで描き込まれているので明らかに目である。

未来連合のマークは見下ろす目に対して、こちらは見上げるような目なので微妙に違うが、しかし黒幕だった獅童のさらに裏側にいたラスボスに同じようなシンボルマークがあるというのは、気になるところである。

※※※

そしてラスボスの真の姿であるヤルダバオトとしての姿に変形した後も、まだこの目のマークはある。

この六角形柱のオブジェクトはヤルダバオトの腰部分にある代物なのだが、ここにも目のシンボルがさらに現れている。

またこの腰部分がなんなのかというと

武装コンテナの役目を担っているらしい。

ここから生えてくる武装は、今までのパレスボスそれぞれが象徴する七つの大罪に対応した人類罪の結晶とでも言うべき代物であり、そんなものを保管する武装コンテナにこの目のマークがあるというのはなんとも意味深だと思っていたのだが……。

※※※

冒頭ムービーより

そもそもこの目のマークはイセカイナビのアイコンでもある。

【全てはラスボスの手の平の上での出来事】

ようするに、怪盗団も、獅童も、ヤルダバオトも全てこの目のシンボルをなぜか保有しているのだ。

イセカイナビの製作者はイゴール――に化けたヤルダバオトである。
ジョーカーはラストダンジョン攻略に至るまでずっとヤルダバオトの手の平にいた。
未来連合にも、イセカイナビにも同じ目のシンボルが使われていることを考慮すると、目のシンボルは「ヤルダバオトの監視下にある」ということの暗喩と見ても牽強付会ではないと思われる。

【ラスボスの干渉】

劇中ではっきりと言われているヤルダバオトが現実世界へと行った干渉は、以下だけである。

ジョーカーと明智吾郎にそれぞれイセカイナビを渡し、ジョーカーをイゴールの代行者、明智吾郎をヤルダバオトの代行者として人間世界の未来を決める代理戦争をさせた。

※※※

だがこれは完全に出来レースであると劇中で明言されており、様々なイカサマがあったとラヴェンツァは言及している。

赤線部分に注目

選挙が始まった途端に、怪盗団の話題が不自然なまでに人口から登らなくなったこと。
獅童への大衆の期待が信仰じみた熱狂へと短期間で発展したこと。
そして怪盗団の存在が大衆から忘れ去られていっている最中にも関わらず、なぜかメメントス最下層の扉が怪盗団を受け入れたこと。

選挙中の出来事については、まだ獅童一味がメディア操作をしていただけでも出来得る芸当ではある(それにしてもあまりにも急速且つ偏向すぎて不自然ではあるのだが)。
問題は、大衆からの認知を得ることによってメメントス深部へと潜る権利を得るはずなのに、選挙終了後の12月24日ではもう怪盗団は悪名すら失い完全に飽きられ、オワコン扱いになってしまっていたにも関わらず、なぜかメメントス最深部へと怪盗団は行くことができたのである。

これはご都合主義でもなんでもなく、ラヴェンツァが言うようにヤルダバオトがわざと聖杯の下まで怪盗団を招待して、完全敗北させるためだったというのは、今更私が言及するまでもないことではあるだろう。

ざっくりモナが説明を締めてくれる

※※※

ヤルダバオトは大衆全てのパレス=メメントスのコアであるため、大衆の認知に干渉することができる。
クリフォトの世界=メメントスと現実世界の融合に至った時に、反逆の意志を持たない人間は異変に気づくことができなかった。
ようするに、普段からアレほど強力でなくとも意志薄弱な人間には意識誘導や認知操作が可能だったというわけである。

これらのことを鑑みると、獅童を祭り上げる周囲の人間への認知操作をしつつ、獅童自身は個別でしっかり監視していたのではなかろうか。
彼はメメントスからの「脱獄囚」で自身のパレスを持つに至ったため直接的な認知操作はやりにくいはずだが、そういう存在を見張るシンボルが上述の「目」なのではないかと私は勘ぐっている。

【ゲームマスターは誰?】

このインチキゲームのゲームマスターはヤルダバオトである。
だが同時に、ヤルダバオトとは聖杯に注がれた大衆の願いでもある。

このためヤルダバオトは自身を神と嘯くが、実態としては怠惰な大衆の欲望の集合体が神らしくあらんと振る舞っているだけに過ぎない。
元ネタのグノーシス主義におけるヤルダバオートと人間の関係は「出来損ないの悪神から創造された人間が不完全であるのは当然のこと」であるが、P5の人間とヤルダバオトの関係は逆転しており「不完全な人間の欲望から創造された神が俗物で卑小なのは当然のこと」なのである。

※※※

P5のシナリオでは露悪的に、怪盗団が娯楽として消費されていく様を描いている。

最初は怪盗団を嘲笑するばかりだった怪盗CHの声が、斑目や金城をターゲットにしたあたりで無責任に祀り上げる声が高まり、メジエドや奥村社長あたりからは「やるのが義務」とどこまでも上から目線で、人気失墜後は「死刑!死刑!死刑!」とかそんな有様だった。

選挙で盛り上がる世間の風潮も冷めた怪盗団の目から見れば「騒げればなんでもいいんだろう」「面白がっているだけ」とバッサリされている。

とにかくP5シナリオの大衆は高校生名探偵明智吾郎も、正義の怪盗団も、カリスマ政治家獅童正義も、結局は一時の娯楽として消費し飽きたらポイ捨て、勝ち馬には乗り敗色濃厚となればバッシングともう本当にやりすぎなくらいに徹底的な陰湿さで描いている。

だがこんな大衆が本当にそのまんまの意味でヤルダバオトの本性なのだ。

※※※

事実、ヤルダバオトもまた「面白いか面白くないか」を重視している。

この他にも、スクショは撮り忘れたが獅童撃破後の賞賛は「私はかつてこれほどまでの逆転劇を見たことがない」と明らかに怪盗団の動向を面白がっており、逆にゲームオーバーしてしまうと「なんともつまらぬ幕切れよ」と暗にクソゲーだと文句を言う。

これは少々穿ちすぎで本題から外れた余談になるが、ヤルダバオトとはつまるところ「P5スタッフから見たプレイヤーへのメタ的な皮肉」なのではないかと私は思っている。

「必ず勝てるゲーム(いくらでもリセットできる)」で「ジョーカーを意のままに操り」「必死に戦うキャラクターたちを敵味方問わず面白がる」。
実に我々そのものではないか。

【ゲームの駒であることからの反逆】

ここまで論を進めたことで、獅童が『選ばれた』のは俗物で小物だったからこそなのではないかという前編での締めにようやく戻ってこれた。

そう、確かにヤルダバオトは獅童&明智父子に期待していた。
どうなってもいい使い捨ての駒として。

獅童&明智陣営が勝てばルール通り、ヤルダバオトの勝利である。
一方でヤルダバオトはそれでは面白くない&反逆の芽を摘むためにあえてジョーカーを賊として育て、彼がコープで築き上げる絆ごと全て地に叩きつけ嘲笑おうとした。

自身がピエロで操り人形であったことに気づいて反逆したジョーカーと明智と違い、最後まで獅童が自分もまた大衆の怠惰な欲望によるピエロで操り人形であったことに気づかなかったのは、気付かないほど愚かな俗物でなければいけなかったからだ。
なぜならば、所詮はただの高校生に過ぎないジョーカーと違い、内閣総理大臣にさせる予定の駒が反逆の意志に目覚めてしまい、ましてや認知訶学を齧っているとなれば、社会的権力と異世界干渉能力をあまりにも高度に持ち合わせているため、怠惰な大衆の欲望の集合体であるヤルダバオトにとっては脅威となる。

獅童が選ばれたのは『選ばれた』という優越感に浸らせておけばよく踊る小物だったからである。

【未だ、奴隷から解放されず……?】

P5無印のラストの展開でちょっとモヤっとしたという意見は、ロイヤル発売前には少数だがたまに見かけた。
というのも、大衆の怠惰な欲望の集合体である統制神ヤルダバオトを最後に撃ち倒したのは、結局のところは大衆の希望の集合体であるサタナエルだったから――とまぁ大体そういうような意見である。

怠惰な大衆に怒った怪盗団が、大衆の後推しで、大衆の欲望を撃ち抜く。

なんともマッチポンプであり、実際ロイヤルのマイパレスではカロリーヌ&ジュスティーヌがヤルダバオトの像の前でこの一件に対して愚痴っている。

また、サタナエルの胸元をよく見ると

赤丸に注目
赤丸に注目

あるのだ。サタナエルにも目のシンボルが。

※※※

アルセーヌが変身してサタナエルが降臨するムービーから、アルセーヌの覚醒進化ペルソナがサタナエルのように受け止めてしまうが、ヤルダバオト討伐の際に召喚されるサタナエルは怪盗団を応援する大衆の希望を束ねたものである。

私的にはアルセーヌがコクピットに乗り込んだ巨大ロボットみたいなものとイメージしている。

また、サタナエルの頭上に浮かぶ光輪は翼を輪っかにしたようなデザインになっており、色の違いはあれどヤルダバオトも頭上に掲げるもの。
相対するとわかりやすいが、機械的で白く清廉なヤルダバオトに対し、生物的で黒く邪悪なサタナエルと、デザインは対になっている。

これは思うに、禍々しいクリフォトの世界の実態を目の当たりにした大衆たちが「こんな世界は望んでいない」「あんな偉そうな上から目線の神サマよりは怪盗団の方がまだマシ」「三島の作った空気に流されただけ」で、結局は縋る対象が切り替わっただけなので形作られる像もヤルダバオトの対になるデザインになってしまったのではなかろうか。

ようするに、サタナエルを召喚して偽りの神を撃ち抜いてもなお、いやだからこそジョーカーは大衆の奴隷であることから逃れられなかったのだ。

今思えばP5無印のループ説は色々と理由はあるものの、この「結局大衆の都合のいい道具に過ぎないまま怪盗団は終わっているじゃん」という不満があったからこそ流布したのかもしれない。

【三学期にて遂に解放さる】

三学期シナリオは、怪盗団が自分たちのエゴを貫んがために大衆の幸せを奪うことをテーマとしている。

大衆が望んでいようといまいと、そんなことは最早知ったことではない。
丸喜の言い分もその幸せを享受する大衆の気持ちも全て理解し受け入れ、決して間違っていないことまでも認めたうえで、それでも自分たちがその手で掴み取った現実を取り戻すために怪盗団は戦う。

ここに至って、ようやく怪盗団は、ジョーカーは囚われの身から真の意味で解放されたと言えるだろう。

※※※

余談だが、三学期シナリオのラスボス丸喜拓人の保有ペルソナはアザトースである。

この神格は全知にして万能、盲目にして白痴たる魔王である。
我々の宇宙はこの大いなる神格が見る夢泡に過ぎず、アザトースが目覚めると宇宙が終わるのでこの盲目白痴たる魔王を慰撫する神格が多数おり、みんな大好きニャル様もその一柱。

そのニャル様ことニャルラトホテプがP2罰で最期に残した捨て台詞が

だが…覚えておけ…!
宇宙の中心で蠢く白痴の塊とは、貴様ら自身だということを…!!

である。
アザトースに仕えながら彼の神格をも嘲笑するニャルラトホテプになぞらえたP2世界観のニャル様は、お前たち人間こそが全知全能にして盲目白痴たるアザトースそのものなのだと嘲弄しながら消えていったわけである。

P5RがP2のリスペクトも含めているのなら丸喜の『曲解』で作られた現実は正にアザトースの夢であり、そういったものに溺れて眠れることを拒否して目覚めなければ、またもニャル様に笑われてしまう図式になっている。

他にも「どんなに苦しかった過去があったとしても、どんなに辛い未来が待っていようとも、自分たちの手で掴み取った現実を受け入れる」という囚われからの解放は、P2罪でP2罰(こちら側)の世界を作るきっかけとなったフィレモンの取引を拒否するコトと同等とも言える。
P5のテーマである「反逆の意志を保ち続けること」はニャル様が人間に課す試練に抗い続けることに通じるものがある。
まぁニャル様はもっと悪辣だがな!!!

【終わりに】

めっちゃ長い記事になってしまったが、そもそもは

「獅童って因縁のボスの割にあまりにも小物すぎて燃えない……」

という不満から考察し始めたら、ちゃんと納得のいく答えが出て大満足したので書いておこうと、そういう自己満足である。
ペルソナシリーズは細かいところまで本当によく作り込んでいるので、考察すればちゃんと相応の答えが返ってくる。
演出の上手さやテンポの良さだけでなくそのあたりも含めて大好きだ。

ただ、獅童はヤルダバオトアバターだったのでは?という思い付きが突き詰めていけばまさかP2のニャル様に繋がるとは思っていなかった。
P5は原点回帰とペルソナシリーズの総決算的なところがあるため、人類の集合的無意識から産まれた神格ヤルダバオトとニャルラトホテプの悪辣さに通じるところがあるというのは、意図されたものと考えても無理はないはず。

獅童も、怪盗団も「自分がやらねば誰がやる」と与えられた力に溺れて大衆の都合のいいオモチャにされていたのは同じだったのだ。
その夢の続きをアザトースが見せて、アダムカドモン(人間の原型)へと至り、最後にはペルソナ能力無しの単なる殴り合いで終わるという流れは与えられた異能との別れであり、ジョーカーと丸喜先生が大衆の奴隷でないただ一人の人間に戻っていく過程を描いていたのかもしれない。


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