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人間は心の中に化け物を飼っている

葬送のフリーレンが読めない見れないペットロスの傷が癒えない面倒くせぇ人間の戯言です。

一巻だけ楽しく読んだけど「面白いんだけどいつだって葬送する側の人間としてはこれ以上読むのはキツい」と自己診断してそっと距離を置くことにしたタイプ。

さて今回はなぜそんな私がこんなタイトルで葬送のフリーレンの話をいきなり持ち出したのかというとこのツイートを見かけたから。


【心の中の化け物を見てしまう】

「最初からそういう存在だと説明」されてもヒットした作品は受け手が多く、どうしても色々な意見が出がちです。

ファンとしては否定的な意見はどうしても受け入れがたい、見るのが辛いので、ツイート先の言い分も何も間違ってはいません。
せめて罵倒ではなく、きちんとした説明が欲しい。
しかしそれを語ると長くなる。Xでは140文字以内の文章に意図を詰め込みきれず、誤解が生じることが多い。
結果としてモヤモヤした感情はなぁなぁの共感覚の中で埋もれてしまう。

じゃ、中には私のような長文書くのが大好き人間の意見を書くのもアリだろうと。

※※※

葬送のフリーレンは上述したように読めない見れない人間なので、知人やwebから集めた情報からの魔族の設定しか知らないので、誤解している部分もあるでしょうから、それを前提のうえでここから先は読んでください。

「そういう設定にしてあること自体が恐ろしい」という意見は、わかります。
その理由がこの記事の趣旨である「人間は心の中に化け物を飼っている」持論と共通する部分があり、そしてフリーレンの魔族設定や鬼滅の鬼設定に私のような人間は「その部分にこそ人間らしさがある」と覚えてしまうわけなのです。
「人間とは違うんだよ」という設定にしてあるのに、わざわざそこに「人間らしさ」を見出してしまうからディスコミュニケーションが生じているのですね。

私個人としては、これを多様性解釈として肯定的に受け止めています。
たくさんの意見があっていいじゃないかと。そうやってわかりあっていけばいいじゃないかと。

【心の中の化け物】

人間は社会性動物なので利他性が重んじられますが、個人としては利己的な感情や考え方を持つことは避けられません。
この利己的な感情や思考を私は「心の中の化け物」と定義しています。

なぜ化け物と定義するのかというと、この利己的な感情や思考に従って行動し続けると、社会に居場所がなくなるからです。
いやだって当たり前でしょ自己中の化け物なんだから。そりゃ排除されるしそうした社会の方が健全ですわ。

「そういう設定にしてあること自体が恐ろしい」と思う人は、魔族や鬼が自分の中に抱いている利己的な思考や感情がキャラクター化されて登場しているように見えて、それを否定されることに否定的な感情を抱いてしまうのだと思います(全員がそうとはさすがに言い切れません)。
早い話魔族や鬼に自己投影している。

だから彼らを否定されることは、どんなに設定上「そういう存在」とされても感情的に受け入れ難いのです。それは自己否定されることも同然なので。
ツイート先の方も「自分が好きな作品を否定されることで自己否定されるようなマイナスの感情」を抱くからこそ、こういうツイートをしたのでしょう。
否定されたと思い込むことの応酬です。
不毛ですね。でもこのやりとりこそが人間らしさなのだと。

【化け物を自認しているか否か】

乱暴に分けて、この「社会的に許されない利己的な感情や思考」に対するスタンスは以下の通りだと思います。

  • 自覚しており、制御もできる。

  • 無自覚だが制御できる。

  • 自覚しているが、制御できていない。

  • 無自覚で制御できていない。

あくまで持論に持論を重ねた妄言なので、あまり鵜呑みにしないように。

【自覚して制御もできるタイプ】

非常に危険で同時に安全でもあるのは「自覚して制御もできる」人間です。
彼らは化け物を飼い馴らしているため、利己的な感情や思考の発散方法をいかにこの社会の中で上手く解消できるか考えて実行できる人間です。

危険人物は他人を傷つけたりマウントを取ることで快感を得るタイプ。これを上手く咎められずに発散する方法を考えて実行するのだからとても怖い。そして飼い馴らしているので咎められたとしても「じゃあ次はもっと上手くやるか」と自己練磨に励みます。

安全なタイプは利己的な感情や思考がさして他者を傷つけないタイプ。
「自分カッコいいor可愛い」とか「他人の不幸は密の味」とかそういうのです。
他人の不幸を見たいがために積極的に行動を起こすと危険人物になりますけどね。ただ見るだけで満足している分には、自制御できているので(比較的)安全です。

【無自覚だけど制御できている】

「無自覚だけど制御できている」タイプの人間は割と安全です。
他者を傷つける感情や思考は、代償行為(ゲームでヒャッハーしたりスポーツで健康的に発散など)で消化してしまう。
自己肯定感を満たすための行動も、行き過ぎた場合は「やっちゃった」程度で済ませて忘れちゃうか、無自覚に反省して次はもっと上手くやるかです。

なお「無自覚に制御できてなおかつ他者を傷つけることに躊躇いがない人間」でも、代償行為で発散しきれないほどに感情激重タイプは社会的に注意や排除、攻撃を受けて徐々に別の方向へとシフトしていくというのが持論です。
全くお咎め無しに上手く立ち回れるくらい無自覚に頭のキレる人間も稀にいるみたいですが。

【自覚しているが制御できていない】

「自覚しているが制御できていない」タイプの人間は、生き辛いタイプです。
悪いことだとわかっているのに、ついやってしまう。それで自己嫌悪を覚え、社会的制裁が下される瞬間が来ることを常に怯えている。
もう既に社会的制裁を下され、再び社会に認められることを諦めたり、またもや失敗してしまうことを恐れている人もいるでしょう。

なおこういう人は「制御できていない」と感じる閾値が低いだけで環境が変われば十分受け入れられるという人も多いだろうというのが持論です。
例として「酒癖が悪いのについ飲んで迷惑をかけてしまう」のを本人は自覚しているけど周囲の人々が「いやお前はそういう奴だって知っているから。それ以上にお前にいい所あるうえで付き合っているから」となれば、自己嫌悪も少なくなりストレスからの酒量も減りますので。

まぁ心底ヤバい奴もいますけどね。

【無自覚で制御できていない】

「無自覚で制御できていない」は絶対数が多くて危険なタイプです。
自分の利己的な感情や思考を、そもそも利他的なモノだと勘違いしていることも多い。「良かれと思って~」と余計なコトをしでかすアレだと言えばわかるでしょうか。
実態としては善意の行動を積極的に行う自分に酔っているだけなのに、本人無自覚で注意しても「そんなことはない!」となっちゃうので話にならないという……。

この手のタイプの人たちは、それはそれで「なぜこんなに自分は世のため人のために尽くしているのに報われないのだろう?」と苦しみ不満を覚えていることが多く、さらにその現状を打破するために心の中の化け物に忠実になりすぎてわかりやすい化け物そのものになることも。

【おわりに】

乱暴な持論でしたが、いかがでしたでしょうか。

ただこの「心の中の化け物」というものは既に仏教でもキリスト教でも「悪魔」とニュアンスは違うものの形容されており「鬼」もずいぶん前の記事で書きましたがそれに当たります。
「節分で追い払う鬼」とは目に見えるモノではなく、自分の心の中にある悪心を追い払うための儀式である、と教えてもらった一件です。

これだけ情報が氾濫している世の中ですが、それ故にか古来からわかりやすく考えがまとめられ、対策方法も立てられているのに忘れられがちなんですよね。
現代で綴られた物語をエンターテイメントとして楽しむのはもちろん良いことですが、その背景やモチーフとなったモノを知り、誤解や悪印象を覚えてもそれをどうにかポジティブな方向に変換させられたらなぁ、と願って今週はここまでで。

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