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瓦礫を変じて金と成す
アフリカや南米の人里はなれた一見、食堂とわからないような食堂に行ったときに時々あることですが、ヤギ料理を注文したら目の前を店主に足を持たれて逆さまにされたヤギがギュエーギュエーと人間のような大きな声を上げながら前を通っていったり、鳥料理を頼んだら同じようにギョエーギョエーと人間のように鳴く鳥が通っていったりして、少し離れた見ようと思えばすぐ見えるところで殺され、小屋で処理され、30分もしないうちに料理となって私の目の前に出てきます。
そういう食堂では、店の横あたりに自分はもう死ぬんだということを悟って生きる気力をなくし下を向いた動物たちがつながれていることがあり、こそっと縄をほどいて助けてあげたい気持ちにもなります。
そんな死刑台への順番待ちをしている動物たちを横目に、目の前に出てきた料理をいただきます。手を合わせいただきますとお礼を言って、食べるのですが、これがだいたい美味しくないです。
日本のように美味しくなるように管理された肉でないからかと思います。(日本は、牛でも豚も鳥でも、美味しく食べれるように育てられていて、鹿児島では黒豚、黒さつま鳥などブランドになっています。殺してその命をいただく時に、せめて、おいしくいただいて心からその命に有難うと言える日本に生まれてよかったなと思います。)
殺しておいて不味いなんて・・・。そう感じる自分に心底悲しくなります。
そして、親鸞聖人(しんらんしょうにん)の
『さまざまのものは、みな、いし・かはら・つぶてのごとくなるわれらなり』唯信鈔文意
という言葉が骨身に染みます。
浄土真宗(じょうどしんしゅう)では、阿弥陀仏(あみだぶつ)という仏さまを大切にします。阿弥陀仏は、そんな仏になり得ない、地獄真っ逆さまの石・かわら・つぶて(小石)のような私を必ずお浄土(じょうど)という清らかなところへ生まれさせ仏という尊い命にすると誓われた仏さまで、今、南無阿弥陀仏(なもあみだぶつ)という姿で私のところに届いてくださっています。
「南無阿弥陀仏」と私の口からお念仏が出る。このお念仏は石・かわら・小石のような私のところに阿弥陀仏(あみだぶつ)が届いてくださっている姿です。
昨晩も月が綺麗で見惚れていました。思えば月の表面は、石や砂。自分で光を放つことはできません。太陽の光をいただいて、見惚れるほどに優しく輝いています。私の命も自分では輝くことはできませんが、阿弥陀仏の光をいただいてほのかに輝く命だと月をみながら思うのでした。
薩摩川内市 願生寺
亀田信暁
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